下浜、坊の浜へ

 坊郵便局前から海岸線沿いに道が下っている。奥の院川が入江に注ぎ込む所は狭い湾になっている。
このあたりを深浦と言い、昔、造船場があったと言うことである。また深浦に接するように島状に突きだした所を中島と呼び、昔は古松が茂っており、幕末の頃には砲台が据えられていた場所である。今でも湾づたいに砲台跡の石垣が残っていた。また、ここは島津斉彬公が西洋式白糖の製造工場を作った所でもあり白糖方とも呼ばれていた。

 深浦夜雨  舟とめて苔もる露は深浦の音もなぎさの夜の雨かな。
 中島晴嵐  松原やふもとにつづく中島の嵐ははるる峰の白雲。

と、このあたりを近衛信輔は「坊津八景」に詠っている。
深浦造船所跡

私は、「ふかうら橋」を渡り、中島の舟つき場に車を乗り入れてみた。小舟がコンクリートで作られたスロープに整然とつながれ、昼下がりの静かな風景を作っていた。
坊津に来て思うことだが、日中は、あまり人を見かけないことだ。
漁業を生業とする人々にとっては、日中は骨休めの時間なのだろうか、入江の水面のごとく中島は静まり返っていた。

 舟つき場の目前には、茜色の八坂神社の社殿が湾にせり出すように姿を現し、裏手の山の深緑に映え、場違いと思えるほどきわだって見えている。
私は、朝方より何も食してない、しかしながら店らしき所がない。まったく観光擦れしてない小さな漁村と言う感じである。
中島より鶴崎を望む
自然の持つサイクルだけが、ここに住む人々の生活規範なのだろう。呉越同舟ではないが、農耕民族のような富を形成することにだけエネルギーを費やし、綱引きしている民族ではないのかも知れない。板子一枚下は地獄。運命共同体であるが故の厳しさといたわり合いを育んできたのだろう。閑散とした風景の中にも、芯のぶれない海の男のひややかな熱情を感じる。




 中島をあとにし人家の建ち並ぶまっすぐな道を走ると、突き当たった正面のガケ地に、小さな神社があった。船戸神社と書かれている。航海の交通安全の神として猿田彦命が祀られていた。
神社の左手は、下浜の滝下の井戸から湧き上がる水を生活用水とするために、石をくり貫いて作ったと言われる石管があったと言うことであつたが、今は整備されていて残っていない。道の奥まった所に井戸跡が残っているだけであった。
また、山手への道は、狭く急な階段やスロープになっており、道路脇には、小さな古めいた供養塔がいくつか立っていた。
その一つに、公民館の上の山手の道端に「アカンコ供養塔(閼伽壺)」と言うのがあった。年代的にも古いもので塔の種子凡字は虚空蔵菩薩であり大永六年十二月三日(1526年)の年号が刻まれていると言うことで、坊津が海外貿易で栄えた頃、これに祈願して出帆したのではないかと伝えられている。
当時は、坊津は倭寇の大根拠地であつたことからして、倭寇に関係が深いのではないかと言われている。
アカンコ供養塔

 倭寇が歴史上に登場するのは、十四世紀の中頃からであり南北朝の時代である。
もともとは、二度の元寇(蒙古襲来)、文永の役(1274年)弘安の役(1281年)が倭寇を生んだと言われ、その意味する所から歴史的に前期と後期に分けられている。
前期倭寇の目的は、主に食糧と人民の略奪であり、八幡大菩薩を旗印に集団を組み、バハン船と呼ばれ、人々は名前を聞くだけで震え上がるほどだつたと言われ、主に朝鮮半島や中国沿岸を荒らし回り、根拠地は北九州、対馬、壱岐、松浦、瀬戸内海などであった。

後期倭寇は、十六世紀、応仁の乱以後の時代であり、密貿易が主な目的であつた。東シナ海沿岸、東南アジア方面が主な進路であり、その根拠地は坊津、五島、松浦が中心で薩摩、肥後、長門の人が最も多く、他に大隅、日向、筑前、筑後、豊前、泉州堺の人々があとに従った。
坊津は、南方方面における倭寇の最大根拠地であつた。
しかし、後期倭寇における実態は、倭人は一〜二割で大部分は中国人であった。その頭目は、王直であり、中国人でありながら松浦に居を構えて、当時二千人余りを従え倭人と組んで中国沿岸を荒らし回ったと言われている。
その姿は、天をおおう山の如く、その帆は空に浮かぶ雲の如くであったと伝えられている。王直は、天文十二年(1543年)八月、ポルトガル人を乗せた中国船が種子島に漂着し鉄砲を伝えた際、通訳をした明人五峰である。
また、王直と行動した徐惟学の甥の徐海と手を組んで杭州一帯を荒らし回った辛五郎は薩摩人であり、薩摩藩における三州沿岸は倭寇の巣窟であつたと言われている。
倭寇は、三,四,五月の春と、九,十月の秋の季節風に乗り行動し、たどり着いた所が略奪の場所であり、当時の明国は倭寇と秀吉の朝鮮征伐の防御のため疲れ果て亡んだと言われている。
公民館より坊泊漁港に通ずる道

 坊の公民館を過ぎ、海岸沿いを行くと右手に湾に100b程突きだした鶴が崎がある。
「坊津八景」

 鶴崎暮雪 鶴崎や松の梢も白妙に
       ときわの色も雪の夕ぐれ

の場所であり、突端に八坂神社(祇園神社)がある。古くから坊一円の産土神として信仰され、代々中世、近世の海商鳥原家が社掌である。
祭神は、素戔嗚尊、稲田姫、八王子の三柱で御神体は鏡である。社殿は茜色に彩られ、神殿の天幕には、鳥原家の巴紋が飾られていた。右回転の三つ巴紋はせめぎ合って円を成し、波濤を乗り越えて通商した人々の力強さを感じさせる。
八坂(祇園)神社

本祭の十月十五日のほぜ祭りは、坊津最大の祭りであり「十二冠女(十二歳になる十二人の乙女たちが頭に賽銭箱を乗せて行列する)」などは、京の祇園祭りを思わせるほど優雅であると言われている。





 坊津は、江戸時代には密貿易港として栄えた町である。
江戸時代に入ると幕府は、切支丹禁令と鎖国令を発令し、海外との貿易を長崎一港に限定して幕府の管理下に置いた。
古来より自由な貿易を行ってきた坊津は、必然的に密貿易に移行することになり、薩摩藩においても、切支丹禁令に対しては徹底的に取締まりを行ったものの、中国との貿易については形式的な取締まりに過ぎず、坊津では、抜荷や沖買、琉球や中国へ船を出す抜船など半ば公然と密貿易が行われていた。

「坊津千軒甍のまちも出船千艘の帆にかくる」と歌われたにぎわいは、鎖国令下においても衰えることなく、当時七〇艘もの海外交易用の船があつたと言われている。
一度の航海で蔵が建つと言われる程であり、多くの豪商たちが生まれた。
しかしながら、鎖国令から約八〇年のち、大阪における大抜荷事件をきっかけに幕府の取締まりはいよいよ厳しくなり、薩摩藩においても幕府に追従するように取締まりを強化し、抜荷に対する一大取締まりが行われた。これが坊津を一夜にして寒村に追いやった「亨保の唐物崩れ」であり、坊津の商家は婦女子だけの町に変わり果ててゆく、

「たのめども海人の子だに見えぬかな、いかがはすべき唐の港は」と歌われる程であつた。
この取締まりをいち早く知った海商たちや海に出ていた船は、クモの子を散らすように隠岐、朝鮮、琉球方面に逃亡し、終生帰ることはなかったと言われている。そして没落して行った。残された子孫たちは、細々ながら漁業へと生業を変えて行くことになる。 
倉浜と呼ばれている地区がある。この地区は、当時の豪商たちの倉が建ち並んでいたことから、その様に呼ばれるようになつた地名であるが、その一角に「倉浜莊」はある。
幕末まで海商として栄えた森吉兵衛の屋敷であり、密貿易屋敷跡とも呼ばれている。
隠し部屋があり、取り外しの出来る階段、船底型の天井、二階の襖を開けると一階の部屋や玄関が見下ろせると言う造りは、忍者屋敷のようであると言われており、
密貿易屋敷跡(倉浜荘)

梅崎春生の「幻化」の主人公五郎も、この部屋に宿泊しその時の様子を書いている。
「倉浜莊」は、現在も民宿の看板を掲げてはいるが、雨戸は閉じられ営業している様子ではなかった。また、このあたりから昔の豪商たちの倉や屋敷が建ち並び山手に向かって石畳の坂道が続いていたと言われ、今でも石畳はあちこちで蛇行しながら山手へ登っている。
 私は、細い石畳の坂道を登り、そしてまた海岸づたいの道を歩いた。道は湾に沿って歪曲し、道の行き止まった所は坊泊漁港になつていた。そこは半島の山並みが入江に深く突き刺さり、この湾の水深を確保しているようであった。
そして半島の沖合いには網代浜海水浴場があり、坊泊漁港は海水浴場への連絡船の発着所になっていた。
陸路では行けない海水浴場。昔、網代浜は抜荷が頻繁に行われた場所で、奇岩として有名な双剣石がある場所である。
坊泊漁港の西方の高台は、一帯が墓地になっており、昔、栄松山興禅寺があった場所である。近衛信輔は「坊津八景」の中で、この場所を

 松山晩鐘 今日もはや暮にかたむく松山の鐘のひびきにいそぐ里人。

と詠っている。
現在は、墓地の中に数軒の人家があり、寺跡と思われる石積みが残っているだけである。入江を見下ろす木陰で休んでいる老人に聞いてみたが、はっきりとした興禅寺跡は分からなかつた。
ただ、明全和尚の墓が、急な坂道の行き止まった所にあった。
明全和尚は、日本曹洞宗の開祖道元禅師の師であり、師弟共々当時の中国の宋をめざし興禅寺に滞在していが、長い船待ちの間に病死したと言われ、興禅寺に位牌を安置し石塔が建てられたと伝えられている。
従来、日本三津の第一港としての坊津は、入宋、入明の際の出帆地であり、多くの僧や文化人が行き交い、まさに日本における文化の西南端の受け入れ口であった。

栄松山興禅寺跡より坊泊漁港を望む

   明全和尚の墓














      

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