久 志 湾 へ

 風車村のある丸木半島を左手に見ながら車をしばらく走らせると、前方に大きな湾が開けてきた。
三国名勝図絵に記された久志湾は、
「西より東に入りたる海湾にて、内外の二港を分つ。内港の口は、北岸より宮崎鼻突き出し、南岸よりは小島二つ接連し、港口をふさぐ。港裏の北浜を今村浜といい、南岸を博多浦という。
又、内港の口よりさらに沖合いに大岩鼻左右より突き出し、やや相向い海口をふさぐ北岸にあるを立目崎といい、南岸にあるを網代という。立目崎の内を馬込浦と号す・・・
これを外港とする。二層の湾内、共に舟舶の安泊に便にして、実に天然の良港なり。往古は、海外の船来たりて交易をなす・・・・」と説明されている。
内湾は、坊浦湾と泊浦湾を二つあわせた位の大きさであり、内港の海岸沿いの道路も直線的で北へ向かって長い。
内港の南岸にある博多浦は、古来より中国、琉球などの貿易船が盛んに出入りし、非常ににぎやかであった港である。

博多とは、物が多く集まるところの意味であり、古く中国では交易商業の中心地を博多といい、昔は筑前の博多と薩摩坊津の博多は共に商業貿易の中心であった。
丸木半島を過ぎ国道を海岸に向かって下ると、人家を迂回し包み込むように道が走り久志漁港に至る。古い家並みは、海湾より小さな川づたいに山手へとのび小さな集落を形成している。この集落の入り口が博多浦であり、唐人町のあった所である。
私は、久志漁港の手前の道を博多浦へと入り込んだ。
博多浦は、古代から海外貿易の拠点であったが故に、多くの唐人が移り住んだ所である。道は石畳が敷かれ、石畳は琉球人の石工によって作られたもので唐針(日時計)が刻まれていたと言う。おしくも昭和二十六年のルース台風で破壊されてしまったが、当時の石畳があちこちに残されていた。
博多浦の石畳の道
唐人たちは、徳川幕府の鎖国令によって海外貿易が長崎一港に限定されると、その居所を失い、新たなる土地を求めて移住して行った。その時、墓も一緒に掘り起こされたと言うことであり、その跡の祠には地元の人々によって墓が建てたと伝えられている。
唐人墓は、山手の小高い丘にあり、博多浦を静かに見下ろせる場所に立っていたが、唐人墓のあたりは荒れ果て、今は屋敷があったであろう石垣が残っているだけである。
幕府の鎖国令を、もろに受けた坊津。その一端を博多浦に見る思いがする。
唐 人 墓

 また、唐人町の入り口あたりは交易場の跡であり、運ばれた荷は一旦ここで降ろされ市が開かれ鹿児島や関西方面へ取引されていったと言われている。
江篭潭(えごんたん)の入江

さらに交易場の近くには、江篭潭と言われている入江があり、ここは船の避難場所であると共に造船所の跡とも言われ、海の干潮を利用しての船底などの修理、修繕をした場所でもあると言われている。
江篭潭の南の丘の日本人墓地には、交易場家の墓石があり、現在でも交易場を苗字とする家が残っていると言う。


 久志地区や秋目地区は、一乗院の影響を多く受けている坊・泊とは異なり、一向宗(隠れ念仏)が盛んに行われた地区でもある。
薩摩藩の公認する宗教は、一乗院の真言宗をはじめ天台宗、禅宗などの国家仏教、貴族仏教であり、学問的戒律主義的仏教であった。
島津中興の祖(日新公)以来、他藩とは異なり、一向宗(他力本願を説く親鸞の浄土真宗)を禁じた。日新公(島津忠良)は、一向宗を「悪魔の所為」であると言い。
孫の義弘(島津十七代)は「一向宗信者は、とかく同類徒党を結び、君父の命に従わず、忠孝の道にそむき人倫を破り秩序を乱す」とし、取り締まりは壮絶をきわめ、外城郷士の重要な任務の一つは「一向宗」の取り締まりでもあった。役所には「宗門改」があり領民には、何宗に所属しているか届けさせ「宗門手札」が渡されていた。
禁を犯せば連帯責任であり、罪の軽重に従って斬罪、切腹、遠島、知行没収、家名断絶、所払、科銀等に処された。
これに対し一向宗は、日々念仏を唱える自力作善の貴族よりも、自分の生活のためにやむを得ず殺生などの悪行を行わざる得ない下級武士や百姓こそが救済されるべきであると説き、封建領主への反抗勢力として育つて行った。
身分制度の厳しかった藩政時代、いつも社会の下積みにいて搾取され、現世に失望し不満を抱いていた人々にとつて、阿弥陀の慈悲にすがり、ただ念仏を唱えれば良いとする一向宗は、禁制の中でも深く浸透し「隠れ念仏」として広まって行った。
大方の人は、表向きは真言宗、天台宗、禅宗に所属しながらも「隠れ念仏」すなわち浄土真宗の門徒であったと言える。
明治初めの廃仏毀釈は、廃寺の歴史ではあったが、一向宗門徒にとっては封建制の崩壊をくぐり明治九年、信仰自由令による新たなる寺院建設への道でもあった。 

 久志における一向宗は、博多浦における淳心講、今村地区の二十八日講が伝えられており、広島地方の一向宗を世に言う「安芸門徒」と言うごとく、博多浦においても「真言堅固の博多浦」と呼ばれるほど根強く信仰されていた。
博多浦は、海外貿易の中心であったため内外人との交流も多く、一向宗は京都の本山と直接海上交通により結ばれていたと言われている。
博多浦は、藩御用船商として多くの家が苗字帯刀を許されており、堺の港のように一種の治外法権地域を形成しており、地元の役人では取り締まれないため、恰好の「隠れ念仏」の地であったと言われている。
唐人町の奥まった所にある淳厚寺は、廃仏毀釈で共に取り壊された真言宗一乗院の末寺の宝亀山阿弥陀寺安養院の跡地に建てられた浄土真宗の寺であり、小さな川に架けられた石橋や石畳は、堅固なる信仰びとの風格さえ感じさせる程、威厳に満ちたたたずまいである。又、今村の地区には広泉寺が建てられていた。
淳 厚 寺

 坊津は、寺院、貿易もさることながら、同時に他の外郷と異なり医者の多くが住した町でもある。特に久志・博多浦においては、貿易によって薬種、香料などの入手が可能だつたことや、南薩地方そのものが薬草の自生する地域でもあつたことから、古くから代々漢方医の家系が多く博多浦近くには住んでいた。

 再び私は、博多浦より国道を内湾に沿って北上した。
途中、左手に砲台跡と言われてる場所には、幕末の頃大砲が据えられ外夷に備えられていたと言う。このあたりは平尾と言われる地区で、山手に向かっての人家は、昔、五十石どん(久木元家、小原家)と言われた家柄の人々の住まいがあったと言うことであった。
現在の久志の町は、平尾地区を少し北進した大久志の地区であり、海岸線の新道より山手側に平行に走る旧道には、地頭仮屋があり久志の中心であった。
平 尾 地 区

内湾の北岸の今村浜は、久志川が湾にそそぐ河口である。河口に沿って宮崎鼻に通ずる途中に広泉寺はある。広泉寺は、今村地区における浄土真宗の寺であり、その前身は、京都正光寺の直門徒として一向宗の二十八日講が行われていた所であり、この寺の本尊の阿弥陀如来の木像は、もと頴娃の開聞神社の別当寺(一乗院の末寺)瑞応院に安置されていたもので、明治二年の廃仏毀釈の直前に持ち出され、今村に運ばれ信者たちが石棺の中に埋めひそかに保存してきたもので、神仏自由令の後に掘り起こされ広泉寺に安置されたものである。
広 泉 寺

又、広泉寺付近の今村地区は、豪商の重屋敷のあった場所でもある。
享保の「唐物崩れ」により多くの豪商たちは没落して行ったが、なおも幕末まで続いた豪商の存在もあった。享保の一斉取り締まりは、自由に密貿易を行ってきた豪商たちの新たなる編成換えであり、薩摩藩の琉球貿易専売体制へ移行するための大支配であった。薩摩藩の専売体制への移行は、一部の大船持ちとの必然的結託を生じさせ、一部の豪商たちは、藩の御用船を勤めるかたわら時には密貿易商として幕末まで繁栄するのである。
その代表的豪商たちは、指宿の浜崎太平次、高山波見の重、串良柏原の田辺、志布志の中山、加世田小松原の鮫島、阿久根の河南・丹宗、東郷の田代、そして坊では森吉兵衛であり、久志博多浦では重家、中村家、入来三家、関、林、田中、森の七家は苗字帯刀を許され、商人たちは、回船問屋を組織していた。
特に、重次兵衛は「久志じゃ重の字や、泊じゃ小次郎、坊の津ヤマキチ(森家の屋号)で名をあげた」と歌に歌われるほどであり、ある年には全国の長者番付に印されるほどであった。
次兵衛が晩年、科をのがれて大島名瀬に渡る時、五十数個の千両箱の半分を久志に残して行ったとも伝えられている。
又、中村家は、大阪中之島に回船問屋を置き、明治期まで大倉庫を持っていたと言われ、今の住友倉庫の前身である。
さらに久志今村の重家や中村家には、西南の役の前年の頃には西郷南州翁が数ヶ月も滞在しており、南州翁の書の類が数多くあったと言われ、明治十年の役の戦費の多くを負担したと伝えられている。
しかしながら、両家とも(坊津の豪商たちが多くそうである様に)明治十年の敗戦と共に没落への道を辿って行ったと言われている。
重屋敷があったと言われる今村地区
私は、広泉寺の裏手の丘に登り、久志の内湾を眺めながら、自然が作り出した天然の良港、そしてそこで織りなされた人々の歴史、そしてそれを眺めている私と言う存在も又同じ歴史の構成員の一瞬の瞬きであると想った。私は、久志に時代と共に生きた人々の夢の跡を見た思いがした。この今村や塩屋地区は、太平洋戦争でB29の爆撃を受け、ほとんど九割が消失したと言われている。




  


           

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