磯・街道探訪(U)

 

  
祇園之洲へ(サビエル)


 多賀山公園を後にし、眼下に広がる祇園之洲へと車を乗り入れた。
旧道より右手に折れ、小さな橋を渡ると埋め立てによって造られた出島状の形をした敷地が広がっている。
稲荷川河口にあたる、この一帯は、遠浅であったため天保年間(1830〜44)に島津家・家老調所広郷(ずしょひろさと)が砲台と屯集所を造るため埋め立てた所である。
ここは、1862年(文久2年)現在横浜の生麦村で薩摩藩士がイギリス人を殺傷したことが発端となつて起こった薩英戦争の舞台となつた所でもあり、今でも、砲台跡は史跡として残されていた。

出島状の埋立地は、その後のものであるが、鹿児島港よりのパイパスが走り稲荷川河口をまたぐ様に橋が掛けられている。

埋立地の河口の突端には、現在、ザビエルの上陸記念碑が建てられ、多賀山公園を見上げるようにザビエルの銅像が建ている。
祇園之洲のザビエル像

昨年、1999年は、ザビエルが鹿児島に上陸して以来、450年目の節目にあたり各地で記念式典が執り行われた。
ザビエルが、薩摩人のヤジロー(アンジローとも言う)をともなって鹿児島に上陸したのは、1549年8月15日であり、当時の領主・貴久は島津本家の養子となつて15代を継いでいた。
          ザビエル像の横の記念碑

この頃の世界の情勢は、15世紀初頭よりポルトガルとスペインによる大航海時代の幕開けであり、
1494年のトルデシーリャス条約により、ポルトガルは東回り、スペインは西回りにて世界を二分する取り決めが行われていた。
この条約に基づき、ポルトガルはインド、東南アジア、中国へとアジア進出を目指し、一方スペインは、アメリカ大陸からマゼラン海峡を通りアジアに向かっていた時期にあたつていた。
東アジアに最初に現れたヨーロツパ勢力は、ボルトガルであり、1498年バスコ・ダ・ガマは喜望峰を回ってインドのカリカットに到着。1510年インドの2代目提督アフォンソ・ド・アルブケルケは、艦隊を引き連れてインドのゴアを占領。ゴアにポルトガル帝国の首都を置きアジア進出の拠点とした。また、ゴアはカトリツクのアジア伝導のセンターともなった。
そして、翌年1511年アルブケルケは、明の朝貢国のマラッカ王国を滅ぼし、さらに翌年モルツカ諸島に進出し、武力を背景としてアジア貿易を牛耳つて行く。
当時のマラツカは、アジアにおける世界の十字路とも言われ、世界の一大貿易センターの様相を呈していたが、同時に海賊の横行が頻繁な地域でもあつた。特に、中国の南部沿海は密貿易と海賊の巣窟であり、福建のショウ州、三日月の形をしていることから名付けられた月港は、その拠点であつた。

1517年、ポルトガルは、当時の明国との国交交渉のため遣明大使としてフェルナン・ペレス・アンドラーゼを送り込み、艦隊が広州に入港した。
1520年、同行したピレスは、広州より北京に向かい正式の国交を申し出るが、皇帝への謁見も許されず交渉は難航、当時の明国は朝貢による貿易しか認めておらず「海禁」政策をとつていた。
また、明国は、ポルトガルを明の朝貢国であるマラッカ王国を滅ぼした張本人てあるとして、おもわしく思っていなかつたようである。
業を煮やしたポルトガル艦隊は、広東沿海で武力による威嚇行動に出るが、明国はこれに対抗しポルトガル人を「仏郎機(フランキ)」と呼び、これをうち払いピレスは広州で投獄された。

ポルトガルは、その後広州近海の上川島を根拠地として密貿易ルートを通じて、より大きな市場を求めて北上して行く。そのことは海賊達とのつながりを密にして行くことでもあった。
そして、その最大の根拠地となつたのは浙江省・寧波(ニッポー)の沖合の舟山群島の双嶼(そうしょ)港であつた。
双嶼港に、最初に現れたのは福建出身の海賊、トウリョウ(とうりょう)であったが、1543年(中国・嘉靖22年)には、許棟(きょとう)と李光頭(りこうとう)が双嶼の覇権を握ると、双嶼は南からポルトガル、東から日本人を招き入れ一大密貿易拠点と成長して行く。また、この年、嘉靖の大倭寇と言われるようになる王直は、同郷である許棟を頼り配下に加わったと言われている。
また、1543年は、王直のジャンクに同乗したポルトガル人によって種子島に鉄砲が伝えられた。
(ヨーロッパの記録では、1542年とされることから1542年説がある。)
鉄砲伝来より6年後の1549年8月15日、キリスト教宣教師サビエルは、鹿児島に上陸することになる。そのキツカケとなったのがヤジローであつた。
ヤジローは、もともと鹿児島城下で海運業に従事していたと言われ、ポルトガル語もいくらか話せる裕福な商人であつたようである。
理由は定かではないが、当時、人を殺めたことにより逃亡し山川の寺に身を隠していた。
たまたま、山川港に入港していたポルトガル船のアルバレスが顔見知りであったため、マラッカに逃亡することになった。
ヤジローがマラッカに着き、ザビエルと運命的な出会いをするのは、1547年(天文16年)12月7日のことである。ポルトガル語に通じていたこともあり、ヤジローはザビエルに傾倒し、翌1548年3月には、インドのゴアに赴きキリスト教の教理を学び、5月には洗礼を受けた。そして、聖信パウロ、二人の従者はジョアンとアントーニオの名前を授けられている。
ヤジローの資質と日本への布教の希望に燃えたザビエルは、ヤジローらをともない1549年4月にインドのゴアを出発。6月にマラッカに着き、そして日本へと向かうことになった。
ザビエルらの乗船した船は、マラッカに住居を構える中国人のジャンクであった。その実態は、密貿易をなりあいとする海賊船であった。
広東、福建沿海の密貿易ルートを航行し、困難な航海の末、その年の8月15日、山川港に入港。ここで小舟に乗り換え、ついに稲荷川河口の鹿児島に上陸した。
ザビエル公園より多賀山公園を望む

ザビエルは、上陸するとヤジローの家族の住んでいたであろう港近くの家で旅装を解き、島津家の菩提寺の福昌寺を訪ね忍室和尚をはじめとし、僧侶達を訪ねている。
鹿児島では、白い坊主が来たと言うことで評判であつたと言われている。
その後のサビエルの行動は、9月29日伊集院の一宇治城で、領主の島津貴久に会見し、正式にキリスト教布教の許可を得ている。現在、一宇治城跡には会見の跡が残されているが、この時、ザビエルは43歳、15代貴久は35歳であった。
貴久が、キリスト教の布教を許可した背景には、ザビエルを利用してポルトガルとの貿易を独占しようと言う目的があったと言われている。その後、短い間で信者の増え方に異常を感じた僧侶たちの願い出により、貴久はキリスト教の布教を禁止した。
島津家歴代の菩提寺・福昌寺(玉龍高校裏手) 島津15代・貴久公の墓

この頃、初めて長崎の平戸にポルトガル船が入港する(1550年6月頃)。
嘉靖の大倭寇と言われた王直の招きによるものと言われている。
王直は、1548年(中国・嘉靖27年)に、それまでの根拠地であった双嶼を官軍に攻撃され、日本の五島列島に根拠地を移し、平戸にも屋敷を構え密貿易を続けていた。
1550年9月、ザビエルは9ヶ月余りの鹿児島での滞在を終え、東市来を抜け川内川河口の京泊より平戸へと旅立つた。
後年、明治初年政府に捕らえられ鹿児島藩に
預けられ死亡した長崎浦上キリスト教徒たちの墓
福昌寺にあるキリシタン墓地

平戸では、領主の松浦隆信の歓迎を受け、100人余りの信者を獲得する。ザビエルは平戸で王直とも会ったであろうと思われる。これ以後平戸は、王直の招き入れによりポルトガル商人が度々訪れるようになる。
平戸を後にしたザビエルは、1551年1月、山口を経由して念願の京都に辿り着くが、戦乱で荒れ果てた都に失望すると、再び山口へ帰り4月大内義隆に謁見し、布教の許可を得ると数多くの信者を獲得する。そして8月豊後府中の大友義鎭を訪ね、豊後での布教を終えると11月20日、マラッカへの帰途につく、途中、種子島へ立ち寄るが、ザビエルの日本滞在はわずか2年3ヶ月であった。

1552年2月、インドのゴアに帰着したザビエルは、その後中国への布教を企て、その年の8月広東に向かうが、広東にほど近い上川島に辿り着いたザビエルは、しばらくして熱病に冒されると12月3日、46歳の命を終えた。日本に上陸した以来、わずか3年目の年であった。

一方、ヤジローは、1550年9月にザビエルと別れ鹿児島に留まったが、その後の消息は不明である。言い伝えによると、数年後海賊船に乗って中国へ渡り、寧波付近で海賊に殺されたと伝えられている。

鹿児島に留まったヤジロー、領内では、貴久のキリスト教を禁止。その後、ヤジローはどのような活動を取ったのであろうか?
1552年中国に渡ったザビエルに、ヤジロー自身も新天地での布教を夢見たのであろうか?そして海を渡り寧波を目指したのであろうか?
それにしては、ザビエルの上陸した上川島とは距離が遠すぎる。
この頃の寧波付近は、嘉靖の大倭寇のまっただ中である。
ヤジローがザビエルと別れた翌年、1551年(中国・嘉靖30年)徐海は、僧侶の暮らしに飽きて
王直の腹心である叔父の徐銓(じょせん)を頼って海に出る、そして徐銓に連れられ大隅に来ている。
おそらく、志布志あたりに来たのであろう。
徐海は、幼くしてコウ州の寺に預けられ、明山和尚と言われていたと言う。
寧波の沖合の舟山群島は、倭寇の巣窟である双嶼港、烈港がある所でもあると同時に、仏教の聖地とも言われる普陀山がある所でもある。
寧波は、古来より日本と中国を結ぶ海の玄関口であり、さかのぼれば遣唐使の入唐道であり、坊津に上陸した鑑真大和上や最澄、道元などの名僧が多くの足跡を残している所である、また室町時代の明国との交易の遣明船は、寧波に上陸し陸路にて北京に入った。
そのような土地から徐海が大隅に来たと言うことで、地元では「生き仏様が来た!」と言うことで大評判であったと伝えられている。
その様な折、ヤジローが新天地・中国を目指していたとすれば、中国からの評判の僧・徐海に会った可能性は大いにある。
何らかの理由で人を殺めキリスト教に傾倒し、洗礼まで受けたヤジロー。一方、僧侶の世界に飽き破戒僧として海賊に身を落とす徐海との出会いは、どの様な形で会話が交わされたのであろうか!想像するだけでも一つのドラマが生まれる。
徐海は、1552年(中国・嘉靖31年)大隅の辛五郎ら、日本の部下を引きつけて明に向かう。
さらに1554年(中国・嘉靖33年)〜1556年(中国・嘉靖35年)薩摩、大隅の日本人を主力として中国浙江方面への侵略活動を開始する。
特に1556年(中国・嘉靖35年)、徐海を盟主と仰ぐ軍団は、およそ2万人であつたと言われている。
しかしながら、この戦いで徐海が重傷を負うと戦意は上がらず、官軍の胡宋憲(こそうけん)の懐柔策も手伝って、徐海は日本に帰ることなく本国で没する。
この時、ヤジローも徐海と行動を共にしたとすれば、寧波付近で海賊に殺されたと言う言い伝えも納得できそうな気がする。

ヤジローも、徐海も、それぞれの立場は違ったとしても、
嘉靖の大倭寇と言われる時代に生き、そして
時代に翻弄されながらも急ぎ駆け抜けていった風雲児であった様な気がしてならない。



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