大当(おおとう)・片浦へ

 野間池を後にし、大当・片浦へ。鼻山、高崎山(乗越の岡)が北方に突き出た海岸沿いの道である。野間池湾口の「みなと公園」を過ぎ、拡張され整備された直線道を走ると、道路脇に「シジリ山かくれ念仏跡」の石碑が立っている。シジリと呼ばれた山があったのであろうか、現在は平坦な場所にその石碑はあった。
また、このあたりの海上には、一年を通してイルカを見ることが出来ると言うことであり、たまにクジラも姿を現すと言う。
しばらく海上を眺めながら進むと、道は狭まり山並みは高くそびえ、平地の少ないこの地域は、「耕して天に至る」と言われるごとく、山の斜面を切り開き石積みで囲われた段々畑が山の中腹まで延びていた。
山の中腹まで延びた畑
薩摩藩の全般がそうであるが、昔は、米だけを炊いたコメンメシを口にすることはほとんどなく、たいてい少しの米に麦やカライモ(薩摩芋)を混ぜて炊いていたカライモンメシ(薩摩芋の飯)やムギメシ(麦飯)を食し、子供達の学校へ持参する弁当は、茹でたカライモであった。
普段コメンメシの食べられなかった当時、行事や祝い事の日に出されるコメンメシは一番のご馳走であったと言われている。

 谷山地区を過ぎると道は、東シナ海に突き出た高崎山(乗越の岡)を回り込むように走っている。その先端は高崎鼻と呼ばれ、見晴らしのいい場所である。船舶の出入りを監視して唐物の抜荷等を取り締まったと言われる異国船遠見番所があった場所でもあり、今でも「番所」と言うバス停が残っている。
番所の地名のバス停
「番所」を過ぎ南下すると、いよいよ大当・片浦である。
東方海上に点在する神ノ島や立羽島が真近に見える頃、海岸線は大きく弧を描き、緩やかな入り江を作っていた。
この海岸は、珍しいサンゴ礁が見られると言うことであり、スキューバーのポイントとも言われ、現在は大当海水浴場になっている。
大当部落は、南西の野間岳山麓より流れ出る大当川が緩やかに東シナ海に注ぎ込む谷状をなした地域にあり、集
大当地区の石垣
落は河口を中心として西の山手に向かって切り開かれている。
人家は、狭い石畳の通路でつながり、丸石を積み上げた石垣は台風に備えての防護のためであろうか、張り巡らされ独特の景観を作っている。
国道より集落に入る入口には「100万個自然石積・石垣群の里大当」と刻まれた案内石があり、観光名所になっている。
大当は、野間岳の真下に位置し大当川の上流には野間岳が悠然と、その姿を現していた。
野間岳に通ずる道も開かれており、古来より野間岳信仰も盛んに行われていと言う。

 大当と片浦は隣り合わせである。
片浦湾! 私は、地図を広げるなり思っていた。変わった地形である。今までに余り見かけない入江である。ワニが口を開いたように、すべてをくわえ込む形をしている。
坊津から久志、秋目そして笠沙の一部の海岸を渡ってきて、直感的とも言えるヒラメキである。
薩摩における海外との交易の窓口であつたことは察しがついていた。
中世において、また江戸時代において、この港が担って来た役目とは、坊津に初めて足を踏み入れた時と同じ気持ちの高まりを感じていた。
片浦湾は、私の期待を裏切らなかった。
突堤より片浦の家並みを望む
天保時代の「三国名勝図絵」に描かれている片浦は、
「野間岳の東麓に連なり、湾口は北に向かう。港の奥行き2キロメートル、湾口の横幅650b、水深32b、大船数百艘を繋ぐことができ、実に薩摩藩の諸港中屈指の良港である。湾口の西岸に一小湾があって(現在の片浦漁港)舟船を停めるに都合が良い。その西岸には、人家が最も多い。通商の唐船が逆風にあったとき、この港に停泊することが往々にある。良港と言うばかりではない。港の入り口には、竹島(神ノ島)楯羽島(立羽島)がそそり立ち、湾岸には人家が断続し、港東には崎山が突き出し、まるで龍が浮かんでいるようである。その絶景なること、つぶさに述べることはとうてい不可能である。」と言う旨が記されている。

 湾口の片浦地区の片浦漁港、ワニの口の奥まった所の仁王崎(漁港)、崎ノ山(海抜100b)半島の付け根の小浦地区、その東岸の小浦漁港。
藩政時代は、片浦、小浦は加世田郷に属し、浦と呼ばれる行政区に属していた。
小浦には浦役庄屋役所があり、片浦には浦の支配を行う浦役所が置かれ、加世田から浦役一家が赴任し業務に当たっていた。
また片浦には、番所鼻と呼ばれる片浦漁港の突端付近の小高い丘に津口番所が置かれ、船の出入りを改め違法な積荷を取り締まった。今でも、この一帯は番所地区と呼ばれている。薩摩藩の浦に対する政策は、外国船や他領船に対する警備力、上方及び南島との海運力の保持と言うことが主な目的であり、万一に備えて若干の武器も備えられていた。
当時の人口は、昭和六十年頃の人口より多かったと伝えられている。

 加世田郷における浦は、現在の加世田市に位置する小松原浦、小湊浦。大浦町の大浦。笠沙町の片浦、小浦であったが、加世田の万之瀬川の氾濫による地形の変化で万之瀬川河口の小松原浦には大きな船が近づけなくなると、片浦は益々薩摩藩にとって重要な位置を占めるようになった。
徳川時代、鎖国により外国船の入港が長崎一港に限定されても、唐船やオランダ船の長崎への航路は片浦沖であり、航行困難な場合は片浦港に停泊することが多かった。
また、度々の漂着や寄港は密貿易の温床となり薩摩藩の財政を支えた。

 時代をさかのぼれば、室町時代においては外国との貿易は明国であった。明国との貿易は勘合貿易と呼ばれていたが、実権を握っていた大内氏(山口県)が滅亡すると、倭寇が再び活動し始めた。倭寇の南方琉球方面への航路は、薩摩からであり坊津(坊・泊)は、その根拠地であり片浦、小浦あたりも拠点であった。
片浦湾を見下ろす丘に立つと唐人も含めて当時のにぎわいが見えるようであった。
山手の丘より片浦湾を望む

 島津中興の祖、日新斉(忠良)の長子、貴久が島津本家十五代を継ぎ三州(薩・隅・日)統一を目指す頃。天文十二年(1543年)中国人の倭寇王直の船に同乗していたポルトガル人により種子島に鉄砲がもたらされた。
六年後、天文十八年(1549年)ポルトガルのザビエルがキリスト教と共に鹿児島に上陸。南蛮との貿易を強く望んでいた貴久は、一時領内でのキリスト教の布教を許可し貿易に力を入れようとするが、僧侶たちの強う反対により禁止する。ザビエルは鹿児島を去り、ポルトガルとの南蛮貿易も途絶えた。
その後、南蛮貿易への渇望は島津十六代義久(貴久の長子)に受け継がれてゆく。
義久の時代は、三州統一が完成する時期である。
元亀三年(1575年)木崎原の戦い(えびの市)において日向の伊東氏に致命的な打撃を与え、天正五年(1577年)に日向国を完全に制覇し三州統一を成し遂げる。
さらに島津氏は、九州制覇へと突き進み肥後、豊後を従えてゆくが豊臣秀吉の九州遠征により無条件に降伏する道を歩く。

 その頃、片浦にスペイン船が、ルソンからヒスパニア(メキシコ)に向かう途中、嵐を避けるために入港した。南蛮貿易の独占を計ろうとする秀吉の圧力もあったが、スペインとの交易も盛んに行われるようになり、スペインのアジアにおける根拠地は、ルソン島マニラであり、マニラの日本人町は最大級のものであったと伝えられている。

 二年程前、ひょんなことからフィリピン(マニラ、ミンダナオ)に旅する機会があった。
西暦1521年マゼランによるフィリピン発見以来、スペイン軍は次々と島を占領して西暦1571年にマニラを落として350年にわたり統治する。
マニラ市の中央に位置する所に城塞を作り、フィリピン統治の根拠地としたと言う。
イントラムロスと呼ばれている、今でもその跡が残っていると言う。
スペイン統治以前、フィリピンはアジア大陸から渡ってきたマレー系の民俗が、幾つもの小社会を作っておりイスラム教であった。
スペイン人は、イスラム教を排し統治をたやすくするするためにキリスト教を導入した。
あちこちの島や場所には、立派過ぎる程の教会が建っているが、地元の人の結婚式に立会人として出席する機会があり、バロンタガログ(フィリピンの礼服)を着せられ列席し膝をついてお祈りする体験は、今でも縁とは言え不思議な感じがする。
思えばマレー系、チャイナ系、スペイン系とひと目で分かる顔立ちの人がいたことが思い出される。暑い季節であった精か、毎日、水がわりにサンミゲルと言うビールを飲んでいた様な気がする。
現在、イントラムノスの城壁跡の近くには、チャイナタウンがあると言うことであるが、一六世紀当時の日本人町もこのあたりにあったのであろう。イントラムノス近くのホテルに滞在しながら、知らない事とは言え城塞跡やチャイナタウンに行けなかったことが今では残念である。
 その後、島津十七代義弘(貴久二男)の頃には、秀吉の朝鮮出兵などに付随し片浦には、相当の海運力があったと言われている。
江戸時代、島津十八代家久(貴久四男)になると、家康は明国や南蛮との交易をさかんに望んだ。薩摩藩においても、唐船奉行が置かれるなどして積極的に展開し、領内各地には唐人が居留するようになり唐人町が起こった。国分,串良の唐人町。坊津、久志、阿久根、川内などに地名が残っているが、片浦における林家などは、そのまま帰化した家系である。
この頃は、片浦に盛んに倭寇も出入りしていたと言われ、元和六年(1620年)長崎にいる唐人たちから「薩摩の片浦に出入りしている唐船は、倭寇であるから取り締まるように・・」と島津氏への要求があった。この時期の倭寇の大部分は、明人、ポルトガル人で日本人は一,二割程度だったと言われているが、薩摩藩はこれに対して、さして取り締まる訳でもなく、かえって注意するよう通達している。
島津十九代光久以降、徳川家光の時代になると、次第に海外との貿易が制限され鎖国の幕藩体制へと移行してゆく。そして、その事は薩摩藩を藩ぐるみの密貿易、抜荷の藩として形作ってゆくことになる。

 唐船の来航において、唐人たちのもたらした信仰が各地に残されているが、特に片浦においては関わりが深く、野間岳信仰と合いまって娘媽(ろうま)信仰が盛んであった。娘媽神は海上の安全の神であり、いつしか野間岳山頂にも祀られるようになり、唐人たちは野間岳の近海を航行する時には、必ず紙銭を焼き金鼓を鳴らして礼拝する習慣があったと言われている。
野間岳の名称も娘媽から来たものであるとも言われているが、定かではない。
娘媽神は、片浦の林家にゆかりがあると言われ、林家の祖は明の遺臣で、明が清に滅ぼされた後に慶長の頃(西暦1644年前後)中国福建省から片浦に渡来し住み着いたと言われている。その時、娘媽神像も一緒にもたらされた。
林家では、娘媽神を「ロバさん」と呼んでいたそうであるが・・・

三国名勝図絵には、
「娘媽女は、中国福建の南、甫田の林氏の娘で、生まれて以来不思議な能力を持ち、ある日、お父さんは無事だつたがお兄さんは、溺れ死んだ! と言う。その後に遭難の知らせが届き、娘の言う通りであった。娘は、海で遭難したとき私を念じて助けを乞えば必ず助けてあげよう! と言い残し自ら海に身を投げてしまう。その屍は、片浦の海岸に漂い着いた。屍の皮膚は、桃の花のようにきれいで、しかも暖かくまるで生きているようであった。土地の人々は、驚き厚く葬った。
三年後、唐人が来て分骨を請うた。以後霊験があらたかで社を山上に建て西宮とした。この娘媽神は、中国では天妃と称し信仰が盛んである。」と記されている。
 娘媽神は、もともと中国の南部地方で信仰された神であり、航海が盛んになるに従って各地へ伝えられた。
娘媽は、一般に媽祖(馬祖)、姥媽、娘媽、天上聖母、天后聖母などと書かれる天妃のことであり、台湾には、娘媽を主神とする廟が三百二十余もあると言う。

 昨年、台湾に旅行に行った際、龍山寺と言う台北市最古の寺廟に参拝したが、そこは仏教や道教が合流し、また民間信仰も合いまって、一つの寺廟の中に違った神仏が同時に祀られると言う台湾特有の寺廟であり、当時は不思議に思っていたが・・・
調べてみると、やはりあった。娘媽信仰が!
海の神としての「媽祖」が、台湾では「マーツゥ」と呼ばれていたが、十六世紀の後半、大陸から多くの人々が台湾海峡を渡って来た時に、海難除けの神様として信仰され祀られたと・・・
昔の私の旅行体験や記憶が、歴史の中で一つ一つ繋がりをもってよみがえって来る。
私は、そんな感慨にふけりながらも、何か不思議なものを感じていた。

本誓寺にある仁王像
 娘媽神ゆかりの林家の墓は、国道脇の片浦湾を見下ろす浄土真宗の本誓寺の裏手の小高い丘にあった。現在付近は、小さな公園になっていたが、後年、林家は一向宗の熱心な信者でもあった。
薩摩の歴史を辿ると、中世期、日新公以来、必ずや一向宗門徒・かくれ念仏の遺跡や講と呼ばれる組織にぶちあたる。そして明治の廃仏毀釈、さらに信仰自由令による満を持したように活発になる浄土真宗。そのことはいかに藩政時代を通して、農民の生活が悲惨であったかを裏付けている。
片浦における一向宗の組織は仏飯講と呼ばれていた。薩摩藩の他の地域の一向宗とは異なり、片浦の浦人たちは水主として藩船に乗り、江戸や大坂に出かけることが多かった事から直接中央と結びついていたと言うことである。ちなみに片浦仏飯講は、摂津国(大阪西成区)の広教寺の門徒に属していたと伝えられている。そして当時の航路は、鹿児島港を出て野間岬を回り、川内の久見崎港、阿久根の脇本港を経て天草近海を通り五島に停泊し、平戸から瀬戸内海に入るのが普通であった。

大漁旗を掲げる仁王崎漁港
 私は、片浦を過ぎ湾の奥まった所に位置する仁王崎へと向かった。
仁王崎は、伝説によると火闌降命(海幸彦)と 彦火々出見尊(山幸彦)の争いが起こった地であり、仁王崎は二皇崎の意味でもあると言われている。
それは、海幸彦と山幸彦が、それぞれ生業の道具である釣り針と弓矢を交換することから始まる神話であるが、古くから海洋と深く係わって来た、この地方にふさわしい神話と言える。
小浦の町並みより片浦湾を望む
仁王崎漁港には、日の丸や大漁旗を掲げた漁船が停泊し、近くの公園では祭りが行われている様であった。入口には、第十三回マリンランド笠沙フェスタと書かれてあり、ハンヤ節競演会などが開かれており、まさに大漁旗を掲げて祝う、農村で言うところの秋の収穫祭(ホゼ祭り)であろうか?
私は、さらに小浦の町並みを通り抜け、小浦湾を眺めながら海岸線を走った。


  

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