加世田市へ

 大浦町は、東シナ海に接する部分が短く、大浦川の上流に沿って南に細長く開けた町である。数分もすると、加世田市に入り小湊干拓が見え始めた。
国道より左に折れ小湊港へ立ち寄る。
小湊は、地形を利用した港と言う感じではなく、遠浅のためコンクリートの突堤が直線的に海に向かって遠々と延びている。人工的に作られた湾内では、日曜日の精か釣り人たちが大勢釣りを楽しんでいた。
また、小湊の海岸からは日本三大砂丘の吹上浜につながる砂丘が南北に四十七`に渡って弧を描くように続いている。
古来より、このあたりは漂着船や漂着物が多く、藩政時代には漂着物に対する取り決めが行われ、その所有や配分などが決められていたと言う。
小湊の町並みの国道沿いにある寄木八幡宮は、豊前国宇佐八幡宮の御神木が漂着した時、その神木を刻んで神体とし祀られたと伝えられている。

 小湊を過ぎ、国道226号線を突き進むと小松原、大崎、唐仁原へと続く、この一帯は、昔は万之瀬川の河口沿いにあたっており、「吹上浜の真砂に埋もれて老木ながらの小松原」と古歌にうたわれ、小松原の地名は、ここから来ているとも言われている。
享和二年(1802年)頃の大洪水で河口は、現在、新川と呼ばれている場所に変わってしまったが、当時、小松原は加世田で最も古い河口港で、中国の船や南方からの船が頻繁に出入りし、商業の中心として栄えた。今でも万之瀬川河口であった場所には、当時船を繋いだと言われている「舟つなぎ石」があり市の指定文化財になっている。
小松原には、この港に出入りする外国船の見張りのための監視所が河口近くの小高い丸塚山にあり、その下に役館所を設けて役人一人が勤務していた。

 資料によると、外国船が沖に近づくと早打ちで藩庁に知らせ、藩から差し向けられた役人は、外国船とひそかに貿易し、そのあと外国船を片浦港に伴い、ここで島津藩の水師を乗り込ませて長崎に回航し難破船として届けたと言われている。即ち密貿易である。
その時の通訳は唐通事と言われ、代々鮫島家が任ぜられ屋敷は丸塚山の近くにあった。
鮫島家は代々小松原に住し、秀吉の朝鮮の役の時には鮫島宗政は、この港から出陣した。
帰国すると家督を弟に譲り身分を捨て、自ら貿易商として「権現丸」「伊勢丸」の二隻の大型船を建造し小松原を根拠として巨大な富を築いたと言われている。

新川港のサンセットブリッジ
 小松原より国道をそれ吹上浜へと向かった。
現在、吹上浜には、巨大な敷地の県立吹上浜海浜公園が整備され、県内屈指の規模を誇るキャンプ場やスポーツ施設、レクレーション広場が人々のいこいの場所になっている。
現在の万之瀬川河口(新川港)には、対岸の金峰町とを繋ぐサンセットブリッジが掛けられ加世田市の観光名所になっている。
私は、浜辺への道を探した。吹上浜海浜公園をほとんど一周りして、やっと前之浜海岸への道を探した。車を停め、痛みのある足を引きずりながら浜へと歩いた。ゴツゴツとした砕石で固められた地面には、雑草が繁り登山靴を通して痛む膝に響いた。まだまだ海岸までは遠いらしい。見えない! しばらく歩くと防風のために植裁された松林が小高い丘をなして続いている。砂地に入った! 足が砂地にめり込む! ゆっくり踏みしめながら丘を登りつめると、潮騒と共に吹上浜砂丘が遠々と開けていた。沈み掛けた日射しに照らされ、白銀色のキラメキの遠方には、秀麗な野間岳が小さく姿を現わしていた。
夕暮れの吹上浜、小さく野間岳が見える
七月より約四ケ月、枕崎を起点として坊津、笠沙の海岸を旅してきて、やっと吹上浜の砂丘に立った。梅崎春生の遺作となつた「幻化」の主人公、五郎が辿った道程(坊津から吹上浜)。
海辺で戯れる人々を眺めながら、しばらく砂丘に腰をおろし、辿った道を思い浮かべていた。坊津の夏の日射しと共に歩いた一乗院。夕暮れの泊港。秋目の鑑真上陸など。思い出と共にしまい込むには、まだ早すぎるほど鮮烈な余韻が押し寄せてくる。


 夕暮れが迫ってくる。私は、最後の目的地である竹田神社に向かう。
加世田を語るには、島津忠良(日新斉)を避けて通れないからである。
日新公は、明応元年(1492年)伊作に生まれ、その生涯のほとんどを戦に明け暮れた戦国の武将である。天文九年(1540年)日新公四十九歳のとき、加世田を支配して以来七十七歳で亡くなるまで二十八年間加世田に在住し戦乱の薩摩,大隅,日向の三州統一を成し遂げ、島津家中興の大業を成し、自らも学問や武芸,禅,和歌を極め薩摩士風と薩摩藩文化の基礎を築いた武将である。
夕暮れの竹田神社
竹田神社の起源は、室町時代の保泉寺にさかのぼるが、永禄七年(1564年)日新公は保泉寺を再興し、自らの菩提寺と定め日新寺と改名した。
その後、明治二年の廃仏毀釈により取り壊されたが、日新公の遺徳を残すため社殿が造営され公の座像を御神体として明治六年竹田神社と改め現在に至っている。

 日新公の長子(貴久)が大永七年(1527年)島津本家の養子となり十五代を継いで以来、領主、貴久はじめ二男、忠将。三男、尚久。そして孫の義久、義弘を従えて、三州統一へと乗り出して行く。

 その主な戦いは、
日新公五十一歳。天文十八年(1549年)加治木城の戦いにおいて肝付兼演を攻
        めこの戦いにおいて初めて実戦に鉄砲が使われる。
日新公六十三歳。天文二十三年(1554年)帖佐の岩剣城の戦いにおいて蒲生氏
        との戦い。日新公六十六歳。弘治三年(1557年)蒲生本城を
        落とし、北薩を平定。
日新公六十八歳。永禄二年(1559年)飫肥(日南)においての伊東氏との戦い
日新公七十歳。 永禄四年(1561年)廻城(福山町)の戦いにおいて肝付兼続
        との戦い。この戦いで日新公二男、忠将、討死。
日新公七十五歳。永禄九年(1566年)伊東氏と三の山(小林)の戦い。
日新公七十七歳。永禄十一年(1568年)日新公、永眠。

日新公、永眠の四年後元亀三年(1572年)木崎原の戦い(えびの市)において相当な打撃を伊東氏に与え、天正五年(1577年)伊東氏、豊後(大友氏)に逃走により、ようやく三州平定が成し遂げられる。

 長い年月を経て、三州平定への戦いを支えた日新公の子や孫たち。そして相当な軍資金。その財源を支えたのは、当時の密貿易であり、倭寇であったと伝えられている。
そして、薩摩における密貿易、倭寇の総大将は、当時、駕篭(枕崎)の城主、日新公の三男、尚久であったと言われている。
尚久は、享禄三年(1530年)日新公の第二夫人、桑御前との間に伊作亀丸城に生まれ、幼名を曇秀丸と言い、大男で弓の名人であった。尚久の使った太刀は、刃渡り五尺の薩摩の波の平であったと言う。
尚久は、領地であった坊津、泊、久志、秋目、片浦、大浦の一帯から野間半島を根拠地として、遠くは沖縄、中国、南方諸島へと交易を広げていた。
しかしながら、永禄五年(1562年)三十二歳と言う若さで、この世を去る。
その原因については、永禄四年(1561年)廻城の戦いで、兄の忠将が戦死を遂げたことについて、兄弟力を合わせなかったと言うことで、父、日新公の機嫌が悪く、それがもとで早死したと伝えられている。
戦乱の激動の時代を、急ぎ駆け抜けて行った武将。そして、三州統一に向かって軍資金調達と言う裏方を担った若き密貿易、倭寇の総大将、尚久。
私は、以前から興味を持っていたが、若くしてこの世を去ったためか、倭寇と言う存在
がそうさせるのか、歴史的資料は少ない。
現在、竹田神社の境内の一角に、ひっそりと尚久の墓は佇んでいる。
日新公は、尚久の死に対し、

 大人も別れの道は友もなや 死出の山路を独り行くらん。

と歌を残した。それを知り、尚久に同情し殉死した一人の武将の墓が、尚久の墓に寄り添うように建っている。
尚久公の墓

殉死者の墓

 私の今回の一連の旅(坊津―笠沙―加世田)の、もう一つの目的は、
尚久の残した足跡を探す旅でもあった。多くの資料を読みあさる内に、少しづつ明るみに出てくる事実が、私をさらなる旅へと駆り立ててゆく。
興味の尽きない旅は、私のこれからのライフワークの一つになり始めている。
そして、その先にある原郷が、うっすらとではあるが、見え始めて来ている。

                        平成十一年十一月九日記。




  参考文献

「笠沙町郷土誌」(上・中・下巻)       笠沙町
「加世田市史」(上・下巻)          加世田市
「ふるさと加世田の史跡」           加世田市教育委員会
「鹿児島県の歴史」    原口 泉      山川出版

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