宮崎県 国道268号線を行く(小林−野尻−高岡線)

 

 
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 国道268号線は、小林、野尻、紙屋、高岡をつなぐ国道である。
高岡で都城よりの国道10号線と合流し宮崎市にいたる。
古代において、小林が夷守(ひなもり)と呼ばれていた頃、日向の国府である西都市より綾、野後(野尻)、夷守、真幸(えびの市)を経て大隅(鹿児島県)球磨(熊本県)に通づる古代の道がうあった。

たまたま、午後より宮崎市に行く用事のついでに史跡を訪ねながら行くことにした。
昼までに市内に着けば良いとの思いで、のんびりと行くことにし、後続の車に道を譲りながら、あちらこちで色づき始めた紅葉を楽しみながら車を走らせた。かつて慣れたる道である。
小林の町はずれの岩瀬川を越えると野尻町である。
しばらく車を走らせると右手に小高い丘が見え始める。何かありそうだとの思いで、小林高校野尻分校跡より山手へと登ってみると戦没者の慰霊碑のある大塚原公園であつた。
公園よりは、付近の景観が一望できる。このあたりを陣原と呼ぶことから、調べてみると1587年(天正15年)豊臣秀吉が九州征伐をおこなった時、羽柴秀長(異母弟)が軍勢20万を引き連れ島津攻めのため陣を構えた所であった。(秀吉は肥後・熊本より南下する)大塚原公園より東南の平地である場所に、当時20万の将兵がひしめき合う姿は、想像を絶する。このことから付近を陣原と呼ぶようになつたと言われ、さらに近くには後陣原、前陣原の地名までもが残されている。

 野尻の街並みに入ると、まず、都城・庄内の乱の犠牲者である伊集院忠真(たださね)の墓を訪ねてみようと思った。
それは、野尻町の街並みの国道沿いにあると言うことであったが、ほとんど気を付けなければ見過ごしてしまう。

そもそも、庄内の乱は、天下分け目の関ヶ原の戦いの前年である1599年(慶長4年)3月、京都の伏見で島津忠恒(家久)の重臣である伊集院忠棟(幸侃・こうかん)を手討ちにしたことから始まる事件である。父を殺されたことに憤慨した忠真は、庄内(都城)に立て籠もり島津本家に対し、外城12ケ城(山田城、志和地城、高城、野々美城、安永城、山之口城、勝岡城、梶山城、財部城、梅北城、末吉城、恒吉城)と共に反旗をかかげ激しく抵抗する。
戦いは、各地で本家方(忠恒)が苦戦し長期化の傾向にあった。それを心配した徳川家康がついに調停に乗り出し、翌年、関ヶ原の戦いの年に、伊集院忠真を都城8万石より薩摩半島南部の頴娃1万石に移すことで和議が成立、のちに帖佐に移され2万石を与えられる(もともと伊集院氏は、鹿屋1万石より秀吉に取り入り都城に入っていたのだが)
しかしながら、本家とのしこりは消えず、再び不穏な動きが発覚する。これを察知した忠恒(家久)は、1602年(慶長7年)8月、参勤交代のお供に忠真を命じ、途中、野尻に滞在の折りに鉄砲で暗殺する。忠真は、野尻の地で悲運の最期をとげた。
さらに、残された忠真の祖母、母は、阿多の自宅で自害させられ、弟の小伝次は国分の浜の市で、次弟三郎五郎、末弟千次郎は谷山の中村で刺殺された。そして伊集院家は滅亡した。
忠真の室である於下(おしも)は、島津義弘の末娘であつため、忠真の謀反を理由に引き取られ、のちに女児と共に島津久元に再嫁させられた。
戦国の時代に起こった哀れむべき事件の結末である。伊集院忠真の墓は、現在宮崎銀行近くの国道沿いに残されていた。

野尻町・国道268号線 伊集院源次郎忠真の墓


墓に添えられた説明書きには、
「伊集院源次郎忠真の墓」
「忠真は、島津氏の家老(鹿野屋城主)伊集院忠棟(幸侃)の嫡男である。
文禄4年(1595年)幸侃は石田三成と親交があり豊臣秀吉の厚遇を受け都城8万石の城主になった。秀吉の死後、島津忠恒(義弘の子)は、三成から幸侃には主家を乗っとり自ら藩主になろうとの野望があることを告げられ立腹し、幸侃を伏見の薩摩屋敷で殺した。(1599年)忠真は都城で、この伏見の変を知り島津氏に叛いて戦いとなった。
(庄内の乱)翌年、戦いが不利となつた忠真は、徳川家康の仲介で和睦し頴娃1万石を経て帖佐2万石の城主となったが、不満の日々を過ごしていた。
慶長7年(1602年)忠恒は家康の命を受け上洛するにあたり叛心の忠真にも同道を命じた。
忠恒は、この野尻に滞在し鹿狩りを行い、日の傾く頃、かねて家臣に謀らせていたとおり忠真主従を謀殺させた。(8月17日)この事件で鉄砲の名手、押川治右衛門と渕脇平馬(穆佐)は忠真と白馬を交換して乗っていた平田新四郎(家老の子)を忠真と思い射した。押川はその責を負い、その日に切腹したという悲話も伝えられている。
忠真の墓に向かって右側の近い方が押川治右衛門、その隣が平田新四郎の供養碑である。事件の翌年、8月17日同族である穆佐の押川則貞が施主となり、後世の冥福を祈って建立したものである。」
昭和56年9月18日野尻町史跡文化財指定。野尻町教育委員会。

と記されている。

のじりこぴあ
人口1万人弱、世帯数おおよそ3000世帯の野尻の街並みを過ぎ東進すると、やがてブラツクバスの釣りの名所として全国的に有名な野尻湖が、国道を遮る。
野尻湖の対岸は、現在町営の歴史民俗資料館も兼ね備えた一大レジャーセンター「のじりこぴあ」が広がる。
国道は、野尻湖を大きくまたぐように戸崎橋が架けられているが、中世においては、手前の小高い丘には山城があった。戸崎川と南谷にかこまりた伊東氏48城の一つである戸崎城は、まさに天然の要害としての趣である。永禄年間には、伊東方の肥田木四郎左衛門尉が城主であつたが、島津氏と伊東氏の日向の関ヶ原とも言われる木崎原の戦いで城主の肥田木氏が戦死すると、その後、漆野豊前守が城主になるも、1577年(天正5年)以降は島津領となつた。
戸崎城跡

 萩の茶屋を過ぎ紙屋に入った。紙屋の関所跡を訪ねてみた。
紙屋にも、中世の山城があつた。伊東方の米良肥後守を城主とする紙屋城である。
伊東氏は、木崎原の戦い後、急速に衰えてゆくが、それは、島津氏の軍勢に敗れたと言うより伊東氏の内部分裂に原因があったと言える。そのことを日向では「伊東崩れ」と言われている。
木崎原の戦いの三年前、1569年(永禄12年)7月、伊東11代当主として人望も厚く今後島津に対抗してゆくには最もふさわしいと言われた義祐の嫡男・義益が24歳という若さで都於郡で急死したのは、伊東氏にとっては悲運と言えば悲運であり、日向の運命を変える一大事件であった。
木崎原の戦い後、島津勢は高原城を攻め、野尻城に至る、1577年(天正5年)野尻城を守る福永丹後守が伊東義祐に対する不満をつのらせ、ついに伊東氏より離反すると戸崎城主・漆野豊前守、紙屋城主・米良肥後守が次々と島津の軍門に下った。
この三城の落城が、伊東氏の没落を一気に突き進めて行くことになったと言われている。

紙屋の関所跡は、国道より左手に300bほど登った紙屋小学校の裏手に残されていた。
薩摩の九関所の一つである。
史跡の説明書きには、


「町指定史跡・紙屋関所跡
指定年月日 昭和56年9月18日。

この境目番所(陸路番所)は薩摩藩の九つの番所の一つであり御番所とも言われ、また土地の人は「ばんどこ」ともよんだ。関所といえば幕府の直轄したものを指すと思われるが、薩摩藩では番所も関所と呼んでいたようである。近くに高岡町の去川(さるかわ)番所、えびの市の球磨口番所がある。
関ヶ原の戦い(1600年)で豊臣方に加わり敗退した島津義弘は、日向の国に上陸後、伊東勢(徳川方)に苦しめられたことから、去川番所の他に四郷(高岡、穆佐、倉岡、綾)所謂、関外四郷を置き、また紙屋番所を設けて、この地方の防備を固めたと言われる。
番所には、上番(瞹「郷土年寄」ヨリ兼務)定番2名、加番3名がいて非常を戒め、他藩旅客の藩内通行の者を改めた。厳重な取締りの例として紙屋番所への犬一匹の通行許可願とか去川番所から紙屋番所への犯人取り押さえの依頼文書等が遺されている。
ここの井戸は当時のものである。紙屋宮前老人クラブは、この史蹟を永遠に伝えるため、明治百年記念事業として顕彰碑を建立し今もこの管理にあたっている。
平成4年3月 野尻教育委員会。」

と記されている。
紙屋の関所跡

小林を早めに出たとは言え、時間限定の史蹟探訪である。国道10号線に合流し高岡の町に入ったが
高岡には、帰りに立ち寄る事とし、左手に天ケ城をながめながら宮崎へ直行した。通常、宮崎まで50分の距離ではあるが、この日は2時間半かけての宮崎入りであった。






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