おじんこの写真
    放浪記

さらなる生き方を求めて
カメラと共に、放浪の旅へ
30数年ぶりの登山(霧島登山)
梅崎春生の「幻化」の主人公、五郎が辿った坊津町、そして吹上浜へ
そのほか笠沙・加世田紀行、韓国旅行へと!
そして、私が、辿り着いところとは?

            桃栗 三太郎
 おじんこの写真放浪記

 
二部坊 津 紀 行

           


  第 五 章

  
坊 津 紀 行



人間は、何故に生まれて、どこへ行くのだろう。
人は、誰かしらどこかでこの命題と取り組まなければならない時が有るようである。
そんな思いが南薩(坊津)への旅を思い立たせた。
今年で450年目を迎えると言う天文十八年(1549年)八月十五日、鹿児島に上陸したイスパニアのキリスト教宣教師フランシスコ・ザビエルは、「日本人は、気が優しくて勇敢な民族で、秩序を好みモラルも高い。十三歳で剣を使い、ひとたび斗挙すれば死ぬまでがんばる民族である」と当時のヨーロッパに報告し恐れられたように、当時の日本人の代表は坊津人であった。

あの司馬遼太郎氏をして「日本を植民地化から救ったのは、坊津人である。」とまで言わせしめた場所、南薩(坊津)。
また、私の遠い先祖の生きたであろう町。私は、その原郷に出会って見たかった。
以前、もう数年前になるが夢の中で「私は、長い石畳の階段を山頂めざして歩いていた。参道の両脇には数百年も経過したであろう杉の大木が立ち並び、登りつめた所が寺であり山門をくぐり奥の院に通されると、そこには懐かしい人々の笑顔があった。」数年経ってもはっきりとその情景が目に焼き付いている。
何なんだろう!そんな思いもあった。

 私は、戦後の作家で敗戦直前に坊津に暗号特技兵として配属されたのち、桜島に転属になる戦争体験を素材にした「桜島」で文壇デビューした梅崎春生、彼の遺作となつた「幻化」の中で主人公五郎が辿った道程(―枕崎―防浦―泊浦―吹上浜―)を辿ってみようと思った。
枕崎漁港

 七月のはじめ、まだ梅雨の明けきらないうっすらと霞みの掛かる昼下がり、私は枕崎魚港にいた。薩摩半島の西南端に位置し、三方(東に国見岳、北に蔵多山、西に園見岳)を山々に囲まれ、南が東シナ海に開けている漁業を生業とする都市
近世以来の漁港で、日本でも有数のカツオ漁業基地である。昼下がりの漁港は、漁港独特の潮と魚のむせる様な臭いで服を通して肌までしみ込んで来る様である。分厚いコンクリートの突堤がコの字型に湾を囲み漁港を形成している。湾には就業を終えた漁船が停泊し、またあちこちで陸上げされた船体が立ち並んでいた。その周りで座り込んで語り会っている人々。昼下がりの漁港は、日射しの中で時間が止まっている様に思えた。
何もかもが、山育ちの私には目新しく思えた。
小学校まで鹿児島で育ったとは言え数十年余りの歳月は、農耕民族が初めて漁労を生業とする民族を見る様な味わいである。

私が、鹿児島で育つた時代、父がよく酒の席で「おまんさぁは、どこいっとなぁ!」
「あたいは農協貯金しぃ!」と独特の枕崎弁で冗談混じりに語っていた事を思い出す。
それ程、カツオの漁獲高が最高の頃だったのであろうか?昭和の三十年代の頃である。
現在でも海岸通りには、南薩地場産業振興センター、かつお公社、お魚センターがあり
特産のカツオを中心にした水産加工所が立ち並んでいる。
しばらくして私は、陸上げされた船体を水洗いしている五〇がらみの男性に声を掛けた。
「坊津は、どっち行けばよかですか?」無理に鹿児島弁で声を掛けた。やけに赤茶けて、潮光りのした顔が振り向いた。カメラ片手に突っ立っている私に、坊津への道を指さして丁寧に教えてくれた。枕崎弁を期待していたが、意外と標準語に近い口調であった。


火の神公園より東シナ海の立神石を望む
枕崎港を後にし市街地を抜けると途中に火之神公園への標識が目に付いた。約4`と言うことで、寄り道をすることにし海岸線を南下した。
左手に堤防を擁する道路を走った突端は、東シナ海に向かって大パノラマが展開していた。
火之神公園!不思議な名称である。またここは絶好の大物狙いの磯釣りのポイントと言う事で、あちこちに釣り人が岩場に腰を据えていた。すぐ近くの海上には、古来より漁業繁栄の守護神として信仰されていて、枕崎のシンボルともなっている奇岩、立神岩がそそり立っている。高さは42bもあると言うことである。
枕崎港を望むはるか東方海上には、薩摩富士で有名な開聞岳が、東シナ海に突き出す様に秀麗な姿をぼんやりと見せていた。古来より野間岳と共に南方方面より来る船人たちの目印になっていた山である。

 私は、再び来た道を引き返すと国道226号線を坊津へと車を走らせた。
栗野と言う地区を過ぎる頃には、蒸し暑さに、また私の高鳴る興奮がそうさせるのかジットリと汗ばんで来た。かって、この様な気分の高まる旅があったであろうか?
ぽつりぽつりと人家のある坂道を通り抜けると見晴らしのいい場所に出た。国道の脇に小さな花壇が作られ石で作られたベンチが、こぢんまりと狭い場所を陣取っていた。
コンクリートの擬木の矢印が防・泊方面を指し示している。その横には丸太で作られた表示板に地名の由来が記されていた。
ここが耳取峠である。
耳取峠(みとりとうげ)

  
耳取峠より開聞岳を望む
地名の由来もいろいろ説があるらしい。
この地で罪人の耳を切り取ったと言う説、またこの峠に来た人々が眼下に広がる展望のすばらしさに見ほれ立ちつくしたことから見ほれが訛って見取りになったと言う説、郷土誌によれば、寒風特に厳しい所を、よく「見取かぜ」などと言うことから、枕崎、知覧方面から峠に吹き上げる寒風で耳がちぎれそうに痛いということから、この地名が出たのではないだろうか、とも記されている。
現在の道路は、明治の終わりに開通した新道で、旧道は北方に五百b登った所で、並木の老松がつづいていたと言う。島津斉彬公が初巡視の時、休憩し展望を賞した所が「お茶屋場」と呼ばれていると言う。
 古来より多くの文化人が坊津を訪れた時、しばし足をとどめこの展望に見取れたのであろう明治の歌人、高崎正風は、

「玉敷の都あたりに移しなば世にふたつなきところならまし」と詠いここを絶賛している。

また梅崎春生の「幻化」の主人公五郎も、立ち止まり懐かしき風景に見入っている。実際、東方には枕崎港、その遠方に薩摩富士の開聞岳、南には脚下に立神岩か小さく見える。天気のいい日には、遠く硫黄島、黒島、竹島が望めると言うことであったが、霞みに隠れていた。

私は、しばらくベンチに腰を下ろし、古来より変わることのない山並みや東シナ海を眺めながら先人たちの思いを探っていた。
坊津は、もうすぐそこだ!

 坊津は、古来より那の津(博多)安濃津(伊勢)と共に日本の三津と称され、古代から近世へと海外貿易と仏教文化が渾然一体となって栄えた港町である。
日本の古代国家が、唐の文化を吸収することによって建設された様に、古代においては坊津は遣唐船の入唐道であり、中世においては遣明貿易,琉球貿易の拠点であると共に倭寇の最大拠点でもあった。
また、近世においては徳川幕府の鎖国令下では中国、南蛮との密貿易港であり、享保年間における幕府の密貿易に対する一斉手入れによる「唐物崩れ(とうぶつくずれ)」で、一夜にして寒村になるまで海外貿易の西南端の中心であった町である。
また一方、今を去る千四百年以上の昔に建立されたとされる一乗院の歴史と共に仏教文化の花を咲かせた町、明治の初め廃仏毀釈で廃寺になるまで坊津人の誇りであり精神的より所であった一乗院。ある意味では、日本の歴史の縮図とも言える坊津へ、私は足を踏み入れた。

 見取峠を過ぎ、しばらく山間のくねった道を走ると前方に東シナ海が開けて来た。
道は、いよいよ狭まり所々道路拡張のため工事が行われている。坂道を下る頃になると左手の白いガードレール越しに眼下に入江が見渡せた。
入江を抱く様に所狭しと人家がひしめき合っている。鉛色の海は、ひっそりと静まり帰っていた。
防の浦である。古代から大陸との文化の交易場であったにぎあいはすでにない。枕崎港に比べ、ひっそりと佇む風景はなおさらながら古き悠久の歴史を細々と生き抜いてきた悲哀を感じさせる。
私は、幾分広くなった道路脇に車を停めると、港を見下ろしながらこぢんまりとしたこの小さな港から波濤を越え大海に、人々を挑ませたものは何だったんだろうと考えていた。

坊の浦を望む


          

目次
   次のページ