一 乗 院 へ

 私は、町並みに入るとまず一乗院に向かった。
坊津の歴史は、すなわち一乗院の歴史そのものであり、一乗院あっての坊津であるとも言われている。
一乗院は、今を去る千四百年以上前、日本にようやく大和政権が成立し大陸より仏教が伝来(583年)した、のち四十五年後、すなわち敏達天皇十二年(583年)百済国(南鮮)の傑僧日羅の創建とされている。上の防、中の防、下の防(現在の下浜)の三カ所に坊舎を建て、日羅(にちら)みずから阿弥陀像三体を刻み安置し龍厳寺と称した。

 その後、敏達天皇、推古天皇の御願所となったが、以来栄枯盛衰を繰り返していた。
平安時代の末期には、崇徳天皇の長承二年(1133年)鳥羽上皇が院宣を下し紀州(和歌山県)根来寺の別院とし真言宗西海の本寺となる。上皇の御願所であり如意珠山の勅号をうける。従つて、平安末期には西国の名高い巨刹として栄えた。
さらに鎌倉時代を経て南北朝の時代(南朝方の後醍醐天皇の吉野朝廷と北朝方、光明天皇を擁立する足利尊氏の京都朝廷との対立)に入ると日野少尉良成が、しばらく衰えていた寺院を島津氏の協力のもと再興し中興の祖となつた。
良成は、父(罪を得て駕籠、現在の枕崎の硫黄崎、現在の小湊地区に流されていた日野中納言某)の身を案じて薩摩に下って来た人物で、そのまま坊津にとどまり、やがて発心して坊津で出家し京都の仁和寺で真言宗広沢派の真言秘法の印可を得て成円法師といった人物である。
それ以来、一乗院は京都の仁和寺の末寺として代々真言密教を継ぐことになり、すぐれた僧侶を出した。特に第四世頼俊、第六世頼政、第八世頼忠は、傑出の僧侶であり日秀上人も加わり名僧が続出している。
良成の再興にあたって、当時の藩主、島津氏久(第6代)は寺領として三二六〇町を寄進している。
更に、天文十五年(1545年)後奈良天皇の勅願寺となり「西海金剛寺」の勅額を受ける。金剛峰寺は高野山の寺号であり、寺号を頂くことは特別の栄光であった。
一乗院は、正式には「西海金剛峰如意珠山龍厳寺一乗院」と言う。
以後、歴代の住持たちによって数多くの塔舎などが建てられたが、坊津は台風などの災害も多く、その都度島津家の庇護を受けながらも県下に四十七寺の末寺を持つ大寺であった。おおまかに資料を拾ってみても、実に悠久の歴史に彩られた寺院である。

 一乗院跡は、坊郵便局を過ぎるとすぐに国道から山手に200b上った所にあると言うことであった。車が交差出来ないほど狭い道である。私は、国道脇の空き地に車を停め歩いて上がることにした。右手の奥の院川に沿って上ってゆくと途中に昔岩間より湧き水が湧いていた硯川があった。坊津に配流された近衛信輔公や島津貴久、義久公が幼少の頃、一乗院に修学の際、硯水に使われたと記されていた。
一乗院への道
しばらく登って行くと左手に傾斜地の土留めのための古めいた石積みが見え始めた。一乗院跡は、道路より一段と高く石積みによって囲まれており、跡地は現在、坊泊小学校になっていた。道路よりの石段を上ると広大な敷地(運動場)さらに前方に4〜5bの高さの石積みの奥に現在校舎が建てられている。
坊泊小学校

明治の初めまでは存在していたと言う西海の巨刹!
ああ、私はこの目で一度見てみたかった。
何だったんだろう。明治初めの俗に言う「寺こわし」とは、歴史の流れとは言え寂しく胸が痛い思いがする。今は、そのかけらを拾い集め当時を忍ぶことしか出来ないとは!

その痛々しい傷跡が、正門の左手にあった。胴体が折れ、一体は顔の目鼻立ちも分からない。片手も途中からもぎ取られている仁王像が、本殿のあった方向に向かってクロツグの木の下で黙して語らず、ただ踏ん張っている様であった。
この仁王像は、大永二年(1522年)一乗院の当時の住職(第七世頼全)が山門を建てた時に安置したもので、向かって左が密迹(みつしゃく)で右が那羅延(なちえん)である。密迹は口を閉じて吽を那羅延は口を開いて阿を表している。すなわち、この二文字が万物の初めと終わりを象徴し、一体になることを表わす。
明治二年の廃仏毀釈の時に、門前のやぶに捨てられていたものを後に門前の青年たちが担ぎ上げて現在の場所に据えたものであった。
仁 王 像

そもそも廃仏毀釈とは?

 日本に仏教が伝来してから、この外来の宗教と日本古来の神道とを調和させるために、「仏が本体で、神は仏が仮にその姿あらわしたものである。」と言う説が発展していた。
その後、神道の思想が神仏相並んで信仰界を支配する神仏混淆の世の中が徳川時代の末期までつづく、従って寺には境内に神社を設けて鎮守とし、神社には別当寺を設けて神事も社僧が司るのが常であった。神社も権現や天王などの仏語をもって神号とするものが多く、また仏像をもつて神体とした神社が多かった。
徳川時代になって幕府が切支丹禁制のため仏教を利用したため神社における僧侶の地位が益々強くなっていたが、漢学が盛んになるにつれ漢学者の中から排仏論が起こり、また、国学がおこるにつれ復古神道がさけばれる様になり排仏の傾向がいよいよ強くなった。

 薩摩藩においては、復古神道を大いに取り入れ、すでに藩主斉彬においては、あらゆる梵鐘を撤廃して武器製造に充てようとしていた。斉彬の死去により全般的には実現するには至らなかったが、この時、坊津の栄松山興禅寺の釣り鐘は召し上げられ鹿児島で大砲になった。その後、王政復古がなり明治政府は、明治元年神仏分離令を発令。廃仏毀釈においては維新政府も実行を躊躇したとも言われ、薩摩藩においては廃仏は明治二年に断行され同年中に終わったが、それから明治九年排仏が解禁されるまで藩内には一軒の寺院も残さず一人の僧侶もその姿を見ることはなかった。
はじめは、一乗院やその他島津氏に由緒ある寺院は残されるであろうと思われていたが、ついに千四百年以上も法灯をかかげてきた勅願寺たる西海の名刹も排寺に追いやられた。その処理については、資料によると、
寺院の建物は解体され、僧侶は還俗して故郷に帰され、あらゆる仏像、位牌、仏具などは院内の二つの井戸に投げ込まれ、そのため一杯になったと言う。仁王像は壊して門前にうち捨てられた。仏画や絵画類のいくらかは坊,泊の豪商たちに常備隊費用の担保の名目で分け与え、寺領はすべて門前の住民に耕作地として分け与えた。一乗院の遺材は後に坊泊小学校の建築材として使われた。
一乗院の梵鐘は、南方郷の役所(枕崎)へ移され時鐘とした。すべての梵鐘は鋳つぶして大砲や弾丸にすることになっていたが、時鐘だけは残すことになっていたのでこの処理になったが、のちに明治十年、西南の役の時、薩軍の砲弾とするため私学校に送られた。
この様に、薩摩藩における廃仏毀釈は徹底的に行われ廃寺になった寺院千六百十六寺、還俗した僧侶二千九百六十六名、その内の三分の一は兵士となつた。寺領の没収による財源は軍事費にまわすと言う政治的、経済的理由があったと言われている。
しかし、いずれにせよ国宝級の貴重な文化財や宝物などが、数多く失われたことや、精神的拠り所を失った事は事実である。
いつの時代にも起こりうる事ではあるが、返す返す残念な思いがする。
当時の一乗院の様子は、三国名勝図絵に見るだけである。

一乗院案内板
 私は、一乗院跡の案内掲示板の順路に従った。
正門の右手には、頌徳碑が立っている。坊の飯田備前守西村と鳥原宗安の業績をたたえて建てられた碑である。
飯田備前は、日本における最初の海事法(廻船式目三十一条)草案のために鎌倉執権北条義時に召されて、兵庫の辻村新兵衛、土佐の篠原孫右衛門と共に日本海事法の祖となった人であると記されている。また、鳥原宗安は、坊の浜の湾に向かって小さく突き出た八坂神社の社家であり、豊臣秀吉の朝鮮の役で人質となって日本に連れられて来ていた中国の茅国科(ぼうこっか)を後に送還する大任を命じられ、慶長五年(1600年)坊から北京に送り届け対明貿易再開に努力した人で、島津家の家臣であると共に三州内屈指の海運業兼海商であり、呂宋などの海外貿易に活躍した人である。

 運動場を右手に迂回し、石積みの階段を上がると校舎の正面に三個の石が列べられている。これは校舎を建てる時に発掘された一乗院の基礎石と言うことであり、約六十a四方の大きさである。また、校舎の裏手には、発掘当時の状態が遺構として保存されていた。小学校の北の裏手の丘には墓地があり、地元では四角墓と呼ばれ上人墓地として県指定の史跡になっている。
上人(しょうにん)墓地

成円法師(日野少尉良成)が寺院を再興して以来、廃仏毀釈までの五百十二年にわたる住職たちの墓と言うことであり、現存するのはわずかだが四角形に囲まれた石棺で石板には上人名が刻まれている。「上人」「僧都」の称号は、当時中央でしか使用を許されていなかつたことからして、いかに一乗院の格式が高かったかを表している。墓石に使った石板は、下の奥の院川から採つたものと伝えられ、この四角墓と言う形式は他に例がなく珍しいと言うことであった。

苔むした石棺は、一乗院跡を静かに見下ろし隆盛を誇った当時を懐かしんでいる様であり、不惜身命!求道しつづけた上人たちの歴史を物語っていた。
上人墓地の上には、海岸線より鳥越部落につながる大きな新道が整備されていた。
この近くに一乗院を創設した日羅の座禅石があると言うことで探してみたが見つからなかった。地元の人に聞いてみたが、分からないと言うことであつた。
史跡が多すぎてと言うより、史跡の中で生まれ育つてきた彼らには、あまり重要なことではないのかもしれないが・・・・・・。

一乗院は、藩政時代は寺格も高く、かなりの寺領を有し門前町を形成していた。一乗院跡地の東方の山手は鳥越と言う地名になっているが、当時、寺門前と呼ばれ武士や百姓や浦浜人、野町人(農村の町人)などと同じように、一種の身分の人たちであった。寺領を耕作したり寺の雑務や商売を行ったりしていた。
一乗院の繁栄の時から由緒ある家筋の人々が寺門前として住みつき現在に至っている。萩原、安東、末野、青野、鮫島、折田、有馬、宮下、長里、松下姓の人達の先祖である。
坊津では、優れた者は医者になるか僧侶になって身を立てる者が多かったが、当時の子弟たちは一乗院に上がり立派な僧侶になるのが望みであり、貴重な書籍や宝物を有する一乗院は、末寺や各郷から集まって来る人々の学問修行の道場でもあった。
上人墓地より坊の浦を望む

私は、上人墓地の丘に立ち、眼下に入江を見下ろしながら、明治の初めまでは朝な夕な唱名の声や梵鐘が静かに西海に鳴り響いていたであろう情景を思い浮かべていた。
意ならずして廃寺になつたとは言え、現在二十一世紀に向かって大きく育とうとする子供たちの教育の場に姿を変えていることが、せめてもの救いであり、時折り吹き上げてくる潮風の心地よさに、しばらく時を過ごし一乗院をあとにした。



 



      

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