磯・街道探訪

 

  
多賀山公園

 以前は、通り慣れた街道ではあつたが、歴史に興味を持ちはじめて改めて見つめ直してみると、知らない所だらけである。
その一つに多賀山公園があった。

鹿児島本駅より、国道10号線に平行に走る線路づたいの道を北上すると、すぐに前方に小高い丘が見え始める。かなり切り立った崖が天然の要害としての趣をかもし出している。地図では、この丘が多賀山公園になっていた。
今まで、一度も気づかずに通り過ぎていた丘である。
旧街道は、この丘を右手に回り込むように続いているが、現在の国道10号線にトンネル(鳥越トンネル)が出来るまでは、この街道が主要道路であった。


錦江湾に注ぎ込む稲荷川の河口の小さな橋を渡り、すぐに踏切を越えると右手が祇園之洲である。
昔は、稲荷川河口あたりは遠浅で干潟が続いており、往来する船の発着場であったと記録されている。
踏切を渡った、すぐ右手のこじんまりとした神社は、鹿児島5社の一つと言われている八坂神社(祇園社)である。
この付近の浜が祇園之洲と呼ばれた所以である。



八坂神社の駐車場より頭上を見上げると、おおいかぶさるように丘が迫ってくる。
多賀山公園への道は、急勾配の狭い道が、山に切り込むように登っていた。
山のあちこちには、切り開いて作られた石垣が、不規則なひな壇状の土塁を形成し迷路の様な道でつながっている。
多賀山公園と名付けられてはいるが、まぎれもなく中世の山城の跡である。
公園の駐車場あたりが、おそらく大手門があった所であろう。
多賀山と呼ばれるようになつたのは、1579年(天正7年)島津義久(島津16代)が、ここに、近江国の多賀神社を勧請し祀ったことからと言われている。
城跡は、現在の鳥越トンネルの上まで続いていたと言われていることからすると、山城としては、かなり大きな規模であったのだろう。前方には、桜島が全貌を現し錦江湾に浮かんでいた。
公園の駐車場のすぐ近くには、古く苔むした石碑が建っていた。
「肝付兼重卿奮戦之跡」と刻まれている。
さらに登りつめた所が、東郷墓地である。眼下には祇園之洲が広がり、右手には鹿児島港が一望できた。
1905年(明治38年)日本海海戦により、当時無敵と言われたロシアのバルチック艦隊を全滅させた日本連合艦隊司令長官・東郷平八郎の墓地である。すぐ近くの山頂には、鹿児島港を見下ろすように銅像が建てられている。
眼下の祇園之洲は、薩英戦争の舞台となった所でもあり、東郷平八郎は、この薩英戦争に十五歳で参陣しイギリス海軍の力を目の当たりにしたことが、海軍への道を選ばせたきっかけになったと言われ、ここ多賀山に銅像が建てられた由縁でもある。
東郷平八郎の銅像 多賀山公園より鹿児島港を望む


 私が、多賀山に興味を持つたのは、ここが中世の山城である東福寺城の城跡であるからである。島津氏が薩摩に下向して以来、三州統一に向かって鹿児島進出の拠点になった城が東福寺城であった。まさに、南北朝の動乱の時期である。

東福寺城は、藤原純友(939年〜941年、伊予の日振島を根拠とし瀬戸内海の海賊と結んで反乱を起こしたが敗れ殺された事件)から4代目にあたる長谷場永純が1053年(天喜元年)に築いたものと言われ、三州(日向、大隅、薩摩)としては初めての城とされている。

東福寺城跡 島津氏居城跡の石碑


島津家初代・忠久が、1185年(文治元年)源頼朝より島津荘下司職に任じられて入薩して以来、5代目にあたる貞久の時代は、まさに南北朝の動乱の時代であり、貞久は足利尊氏と京や鎌倉での戦いを共にすることになる、尊氏が室町幕府を開くと、いよいよ南北朝の争いが各地で繰り広げられることとなった。
光明天皇を擁立する足利尊氏の北朝方。後醍醐天皇の南朝方の戦いは、南九州の地にも飛び火する。
南朝方は、まず後醍醐帝の侍従の三条泰季(やすすえ)を1337年(建武4年)指宿に下向させ、さらに5年後の1342年(康永元年)南朝方勢力拡大のため後醍醐帝の皇子である懐良(かねよし)親王を征西将軍宮として薩摩に向かわせた。懐良親王は、そのまま谷山城へと入った。
これに対し、北朝方(足利直義)は、南朝方勢力の押さえとして1340年(暦応3年)上洛中の島津貞久と嫡男・宗久を薩摩に帰国させ、南朝方の制圧にあたらせた。
この年の前年8月、すでに後醍醐天皇は吉野にて病没し、後醍醐帝の皇子である義良(よりよし)親王が即位していた。
 
 この時の、南朝方勢力は、谷山隆信、知覧院忠世、矢上高純、鮫島彦次郎、市来時宗らの国人衆に加え、島津一族である伊集院忠国も加わっていた。伊集院忠国は、島津2代の忠時の子である忠経の流れであり、俊忠を初代とするとする伊集院氏の5代目に当たっていた。
一方、北朝方は、島津貞久(5代)を総大将とし、伊作宗久を副将とする勢力であり、これらに、莫弥(あくね)成時、二階堂氏らの国人衆が従った。

 出水市山門院の木牟礼(このむれ)城に、帰国した貞久は、間もなく守護所を川内市の碇山城(いかりやま)に移すと、大隅、日向への拠点として地の利に恵まれた鹿児島へと進出する。
多賀山より催馬楽台へ通じる丘を望む

そして、その目標となったのが東福寺城であった。当時、東福寺城は南朝方の鹿児島郡司である長谷場一族の矢上高純の領地であり、一族の中村高純が守っていた。
そして、矢上家の本城は、鳥越トンネルの山の頂に広がる台地の催馬城(せばる城)を本拠地としていた。
1340年(暦応3年)帰国した貞久は、その年も秋も深まり行こうとする時期、碇山城を出発し、途中の南朝方の市来城、伊集院忠国の一宇治城を攻めたてると共に、貞久の弟、島津忠光(佐多氏の祖)に、弥寝(ねじめ)一族を付けさせ東福寺城を、さらに、島津資久(樺山氏の祖)資忠(北郷氏の祖)に、催馬楽城(せばる)を攻めさせた。
吉野に通じる催馬楽団地

東福寺城攻めを事前に知った肝付兼重は、城主・中村秀純を救援するため高山城から駆けつけ島津軍の侵攻を妨げた。
島津氏の三州統一を最後まで阻んだ肝付氏は、そもそも大友帝の皇子が伴姓を名乗り7代目にあたる伴兼行が968年(安和元年)薩摩国総追捕使となって下向し、兼行の3代目の伴兼貞が御冷泉帝より薩摩、大隅の二ケ国を受領、1036年(長元9年)大隅国肝付群弁済使となり、その子・兼俊が、肝付群高山郷に城を築き肝付姓を名乗ったのが始まりである。
島津氏初代・忠久が守護職に任ぜられるはるか150年ほど前である。
肝付兼重は、その8代目にあたり南朝方として肝付一帯に勢力をのばしていた。

その年の東福寺城、催馬楽城の守りは堅く容易に抜けず、島津勢は多くの死傷者を出した。
翌年、1341年(暦応4年)2月島津勢は、再び催馬楽城を囲んだ。4月には、東福寺城を攻める。東福寺城を守る肝付軍と島津勢との攻防は、壮絶を極めたと言われ3日間にもおよんだと言われている。しかしながら、ついに力尽き東福寺城は、島津勢の手におちた。
その激戦の地が、多賀山公園の駐車場近くにある「肝付兼重卿奮戦之跡」の石碑である。東福寺城跡をめぐって見ると、天然の要害である山城が、いかに強固な城であったか、
肝付兼重卿奮戦之跡

今よりおよそ650年ほど前の昔の事とは言え、攻防を繰り返す城兵の雄叫びが聞こえてきそうである。
南北朝の動乱による戦いは、益々南九州の各地へと波及して行く。
崩れかけた土塁、苔むした石畳、前方にたたずむ桜島山。それぞれの時代を眺めてきたのだろう。何も語らず、ただ暮れなずむ風景の中でひっそりと、その思いを錦江湾に写し込んでいる様に思えた。
また、この年の島津勢による催馬楽城攻めは、城兵に大打撃を与えたものの、ついに墜ちることはなかった。・・・・・・・
多賀山公園より桜島を望む

参考

その後の島津氏の鹿児島での居城は、清水城−内城(うちじょう)−鹿児島城(鶴丸城)と移って行く。

清水城

清水城−−1387年(嘉慶元年)島津7代・元久が築いた城。その後、島津15代・貴久が、伊集院より鹿児島に入った時、この城を居城とした。現在清水中学校の裏手の丘にあった。

清水城があった清水中学校裏手の丘 清水中学校は大乗院の跡でもある手前の大乗院橋

清水中学校正門には、大乗院、
「明治初年に「廃仏毀釈」が起こり、鹿児島で最初に取り壊されたのが、この大乗院でした。
大乗院の歴史は、島津氏が伊集院に建てた荘厳寺に始まり、島津家第15代貴久によって清水町に移され、薩摩藩における真言宗の中心寺院として栄えました。
島津氏の祈願所として代々の藩主から厚い信仰を受けたため、藩内の各地にたくさんの末寺がありました。
現在は、清水中学校正門脇に第11世覚山和尚の墓石だけが残っています。
また校門前には、甲突川の五大石橋と同じく岩永三五郎により架けられた大乗院橋が残っていましたが、昭和63年惜しくも水害で壊れ、翌年新しく橋が架け替えられました。
大乗院の正門を「仁王堂」と呼び、その近くから湧き出ている泉を「仁王堂の水」と呼んでいました。この水は、茶・酒づくりによく、清水町の名もこの水に由来すると言われています。
現在湧水は水道水として利用さりています。」と記されている。
第11世覚山和尚の墓石 三国名勝図絵による当時の大乗院


内城

内城(御城・現在大龍小学校)−−1550年(天文19年)15代・貴久が新たに築いた城。内城を中心に城下町が形成され貴久はここで約50年間統治する。そのご内城あとに禅僧南浦文之(なんぽぶんし)を開基とする大龍寺が建てられた。

内城跡と大龍寺跡 大龍寺跡石碑

「文珠童から黒衣の外交官へ
清水城より貴久が移った内城跡、その後内城跡に大龍寺が建てられた。現在、大龍小学校。
大龍寺は、貴久(大中)義久(龍伯)の号にちなかで名付けられ名前である。
開祖は、朱子学をわか国にもたらした桂庵玄樹の流れをくむ南浦文之であり
文之和尚は、1555年(弘治元年)日向(宮崎県)飫肥に生まれ文珠童と呼ばれるほどの才児で串間の龍源寺の一翁玄心によって桂庵の教え触れた。
著作の中で「南浦文集」に収められた「鉄砲記」は、わが国への鉄砲伝来を知る貴重な資料と言われるとともに
また文之和尚は、義久、義弘、家久の三代につかえた政治顧問としても有名で琉球政策などに手腕を発揮し、黒衣の外交官といわれた。1620年(元和6年)死去、鹿児島県加治木町の安国寺に葬られている。」


鹿児島城(鶴丸城)

鹿児島城(鶴丸城)−−1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いに敗れた島津氏は、防衛機能の乏しい内城の変わりに島津18代・家久が1602年(慶長7年)より築城し始め2年後に内城より移り居城とした。

鹿児島城(鶴丸城) 2000/10/22撮影




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