おじんこの写真
    放浪記

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そして、私が、辿り着いところとは?

            桃栗 三太郎
 おじんこの写真放浪記

 
四部韓 国 旅 行
              


  第 七 章

  
韓 国 旅 行


 年末にさしかかろうとする十二月、韓国へ行く機会を得た。
予定していた訳ではなかったが、たまたまツアーに誘われての参加である。
一昨年、昨年と海外旅行したが、年が押し迫っての旅行は初めてである。まあ、二泊三日と言うことで0Kしたが、いざ行こうとする時、日本に一番近い国でありながら何も知らないことに気が付いた。
私の韓国に対する知識と言うものは、まったくお粗末と言う一言に尽きる。イメージとしては、秀吉の朝鮮出兵、百済と言う国、元寇、「釜山港へ帰れ」の歌謡曲、チヨーヨンピル・・・・・
無理に思い出しても、焼き肉、キムチ、お隣の北朝鮮の「テポドン」事件、これぐらいの知識である。このままの状況での観光旅行もいいが、この機会に少し韓国と言う国を勉強しようと思い立ち何冊かの本を手にした。
我々の世代の学校における歴史教育では、特に近代史は通り一辺的であり、試験に出ることもなかった様な気がする。その精でもないが、真にもって私自身の韓国に対する歴史認識の疎を実感することになった。
まさに「ぬるま湯」につかっての戦後を過ごして来たと言う感がする。

 出発の朝、十二月三日金曜日の朝刊の一面を飾っていたのは「1992年十一月以来中断していた朝鮮との国交正常化交渉が再開される」のトップニユースである。
日本の敗戦により、北緯38度線で分断された朝鮮半島。同一民族の北と南の軍事境界線、その北部の朝鮮民主主義人民共和国は、戦後五〇年以上経った今でも、その後遺症が続いている。
両国に横たわる
「日本の三十六年間の植民地支配による補償問題」
「北朝鮮の食糧危機に対する日本の人道的支援問題」
「新潟県の中学生をはじめとする北朝鮮による日本人拉致疑惑」
「昨年八月の弾道ミサイル・テポドン発射問題」など・・・
にわかに私の中で身近に感じ始めながら、我々七人(男四人、女三人)は、福岡へと高速を走った。ほとんどのメンバーが何らかの形で縁があり面識のある顔ぶれである。楽しい旅になりそうである。

 朝鮮半島の歴史は、古朝鮮時代―三国時代―統一新羅時代―後三国時代―高麗時代―李氏朝鮮時代―近代へと移行する。
紀元前三世紀頃の箕子(きし)朝鮮、紀元前二世紀頃の衛氏(えいし)朝鮮を古朝鮮時代と呼び。四世紀、日本では大和王権が成立する頃、朝鮮半島では高句麗、漢江流域の百済、慶州地方の新羅が台頭する三国時代に突入する。
三国の内、一番軍事的に劣勢であった新羅は、中国の唐と同盟を結ぶことにより、660年百済を、668年には高句麗を滅亡させ676年に三国統一を成し遂げ統一新羅時代が始まる。新羅時代は仏教文化が栄えるなど平和な時代が続いたが、八世紀後期になると政権は揺らぎはじめ、再び地方豪族が割拠し898年に後高句麗、900年に後百済が再び興り後三国時代と呼ばれる時代へと移行する。

 これを統一したのが後高句麗王の部下であった開城の豪族王建である、918年開城を首都とする高麗国をうち建てると新羅、後百済を滅ぼし936年朝鮮半島全域を統一した。この高麗国が韓国の英語名のKOREAのもとになっていると言われている。
高麗は、中国の宋国にならって科挙制を導入し中央集権的官僚国家をめざした。仏教も隆盛を極めた時期でもある。
その後、モンゴル高原の遊牧民を統一したチンギス・ハンが宋を滅ぼし元国を作ると、高麗は蒙古軍の進入を受ける様になり、1259年には元の服属国となつた。元は二度にわたって日本を攻める(1274年の文永の役、1281年の弘安の役)が失敗すると、その頃から高麗は日本の倭寇(前期倭寇)による度々の侵略略奪に悩まされることになり、その防衛や度重なる飢饉のため次第に財政は貧窮してゆく。(日本では元寇により鎌倉幕府は滅んで行く)。
中国では、元に代わり明国が新しく勃興すると、高麗は国内外ともに混乱をきたし、倭寇討伐で功名をあげた李成桂が、元に代わり明国と手を結ぶことにより王位を略奪し、1392年李氏朝鮮を建国する。
李朝は、首都を 開城より漢陽(または漢城、現在のソウル)に移し、1910年の日本による韓国併合まで500年以上にわたる長期政権を確立した。李朝は、明国にならい両班(ヤンパン)と呼ばれる特権官僚の身分世襲制を取り入れ、儒教(朱子学)を国教とする文治国家をめざした。1446年には訓民正音(ハングル)と言う文字が制定されるなど文化の普及はめざましいものであったが、特権官僚による支配は多くの歪みを生み、次第に私的利害闘争や儒教の党派争いなどを呼び、豊臣秀吉の侵略なども加わって国勢は衰え近代へと突入してゆく。

 我々のツアーは、朝七時に出発して福岡空港へは三時間弱の走行だった。
軽い昼食を済ませると、アジアナ航空(OZ133便)にて十二時五〇分、韓国へと飛び立った。
機内では、韓国製のやや水ぽいビールを飲みながらスチアーデスの美貌に見取れ、舌足らずの縮こまった日本語のアナウンスが、初めての韓国とは言え、私に軽い愛着心さえ起こした。今回の旅行の目的は、写真撮影がメインのテーマであったが・・・
眼下には大海原が続く。やや霞みに隠れた対馬海峡。東シナ海より対馬海峡をすり抜け日本海に流れ込む対馬暖流(黒潮)は、やがて対馬の北で韓国東岸を南下するリマン寒流とぶつかり混じり合い北東へと突き進み山陰、北陸の海岸を洗う。
この海流こそが、古代より大陸や韓国からのポーターの役目を果たして来た。
山口県、萩市の東方の江崎に、通称磁石山と呼ばれる岩山があるそうであるが、南朝鮮を船出して、この山を目指せば寝ていても日本に辿り着くと言われている。
そして、この暖流と寒流は多くの種類の海の幸を人々にもたらした。

 日本に一番近くて遠い国とも言われた韓国は、
カメリアラインのフエリー(博多―釜山間)で約15時間40分。
高速艇(JR九州ビートルU世号)を利用すれば約2時間55分。
空路を利用すれば、福岡空港から釜山の金海空港まで、わずか55分の距離である。
晴れた日には、対馬から朝鮮半島が見えると言う。
この対馬海峡では、有史以前より日韓の多くの歴史や人間ドラマが繰り広げられて来た。
古代における日本への文化移入も、この海峡を渡って来た。そして侵略の歴史も同じ海峡を渡った。
私は、その同じ海峡を上空より眺めている。日韓の歴史を紐とけば・・・
古代においては、倭の国王、卑弥呼が中国の後漢より授かった金印が渡り。
六世紀初めには、百済を通じて日本に仏教が伝来。
七世紀には、百済の要請により日本は、救援水軍を派遣、そして唐、新羅連合軍に白村江の戦いで敗北。また七世紀から始まる遣唐使船の北路にあたる中国へのコースは、朝鮮半島西岸づたいであった。
十三世紀末には、二度にわたる元寇。第一回の文永の役では、来襲したモンゴル人、女真人、漢人の数は合わせて二万人、高麗人六千人の計二万六千人であったと言われ、対馬、壱岐、博多湾西部が戦場となり太宰府まで迫る勢いであった。第二回の弘安の役では、その兵数は十四万人、四千四百艘の軍船による攻撃であったが暴風雨のため敗走。大半は海の藻屑と消えた。
その内の二,三万人の兵は、日本の捕虜となり博多に連行された。日本人は蒙古、高麗、漢人は殺し、中国の江南人は殺さず奴隷としたと言われている。日本人に助けられた江南人は、モンゴルに滅ぼされた南宋の人達であり、日本人とは交易においてなじみが深く海上貿易の達人であった。
その結果、日本は船の技術や海の道、物産情報などを得て海外へと乗り出して行く。
そして、この元寇こそが倭寇を生んだと言われ、日本の海洋アジアへの進出となって拡大して行くことになる。
十五世紀に入ると、李氏朝鮮との日朝貿易。
十六世紀には、豊臣秀吉による二度の朝鮮侵略。
十七世紀、江戸時代には朝鮮通信史による文化交流。
近代に入ると、日本は鎖国体制の朝鮮に対し開国を強要。日清、日露戦争を通じ、ついに朝鮮を併合し、やがて世界大戦へと戦火は拡大して行く。
まさに悠久の歴史が、日韓の間には刻み込まれている。

 やがて機内アナウンスと共に飛行機は着陸態勢に入る。大陸が見え始め町並みが間近に迫ってくる。フライト時間は、わずか30分であった。
我々は、釜山の北西に位置する金海(キメ)国際空港に着陸した。外気は摂氏十一度と言うことであつた。金海国際空港は、洛東江の下流の二股に分かれる河口の中州に位置し、広々とした平地の金海地方は、古代においては加耶(任那)とも呼ばれており、任那日本府が置かれていたと言われる所である。
タラツプを降り到着ゲートへと歩く。途中、写真を撮ろうとすると監視の男が、遠くからジェスチャーで禁止である旨を伝えてきた。金海空港は、軍の飛行場も兼ねており機密保持のため撮影禁止の場所であった。
金 海 空 港
韓国は、今でも準戦時体制下にあり徴兵制度のある国である。男性は十八歳になると、陸軍で二十六ヶ月、海軍で三十二ヶ月、空軍で三十五ヶ月の服務期間が定められていると言う。
入国審査を済ませ出口へ向かうと出迎えの女性ガイドが待っていた。私を除く男性メンバーは、面識があるらしく気さくな感じであった。
我々は、両替所でウオン(その日のレートは1,000円が11,005ウォン)に交換を済ませた。日本円を約10倍するとウオンになる。これが使い方の目安になる。桁が多い精か金持ちになった気がしないでもない。
我々は、小型マイクロに乗り込み釜山へと向かった。バスの窓越しより見る金海は広漠とはしていたが、ハングル語で書かれた看板の文字を除けばあまり違和感は感じなかった。
釜山市街までは二十分位であったであろうか?
釜山の市街地
韓国第二の都市、釜山。人口450万人。市街地は、三方を5〜600b級の山に囲まれ南海に向かって開けている。
昔より、漁業、海運業で発達して来た港町である。釜山港は、古くは富山浦(フザンポ)と呼ばれていたが、韓国最大の港であり釜山と言う地名は、山の形が鉄釜に似ていることから付けられたと言う。
釜山市街は、山手に向かってマンションが建ち並び、住民は、ほとんどマンション暮らしであると言う。ガイドに聞けば、釜山では木造の建物は建てられないと言うことであった。
洛東江の大橋を渡り、市内観光の最初は龍頭山公園である。公園は、釜山港の西に位置する小高い丘の一角に広がり、山の形が龍の頭をしていることから名付けられたと言われ、公園内にそびえる釜山タワーは、町のシンボルであり目印にもなっている。
並木づたいの急な坂道を登り詰めると視界は開け、釜山タワーが上空まで延びていた。
1974年に完成したタワーは、高さ118b、山の高さを加えると海抜180bにもなると言う。なぜこのタワーが建てられたかガイドに聞きそびれたが、テレビ塔なのか、単に展望台なのか、何れにせよ釜山市街が全望できることは、私にとっては有りがたい。
展望台へはエレベーターで登ると、三六〇度の
回廊からは眼下に釜山港や二つの橋で繋がれた影島が海上に姿を現していた。
龍頭山公園
         釜山タワー














さすがに韓国第二の都市、ビルが隣立し昼の日射しに映え街を白ぽく彩っていた。

影島と朝鮮戦争で犠牲になった国連軍墓地のある南海に突き出た半島が形成する釜山港は、日本に一番近い海の窓口であると共に、数々の歴史の舞台となつた。秀吉の朝鮮出兵の上陸地も、この釜山港であった。私は、眼下に広がる街並みを見下ろしながら、何拾万人もの将兵たちがひしめき合っていた当時を思い浮かべていた。多くの人命が失われたのであろう。しかし今では、遠い昔の様に街は、すべてを飲み干しエネルギツシユに息づいている様に思えた。
公園の中央には、李舜臣(イスンシン)将軍の銅像が対馬海峡に向かって日本をにらむように立っている。李舜臣は、秀吉の朝鮮侵略の時、日本の水軍を破ったと言われる救国の英雄である。
李舜臣の銅像
 秀吉は、はじめは朝鮮侵略の意図はなかったと言われている。あくまでも明国の征伐が当初の目的であり、その道案内を朝鮮に命じたにすぎないと言われている。朝鮮は、これを拒否した。
当時、世界は大航海時代を迎え、スペインが動けば世界が震えると言うスペイン優位の時代風潮であり、ポルトガルを併合したスペインは、マニラを基地としてアジア進出に乗り出す時期であった。
一方、日本の統一を成し遂げた秀吉は、海外発展政策を積極的に打ち出し、その構想は中国はおろか、はるか天竺(インド)までを含む東アジア全域に、一大帝国を築き上げようとしていた。そして、天皇を北京に迎え自らは寧波(ニツポー)に身を置き、東アジア全土を支配しようとしていた。
秀吉は、朝鮮出兵に先立ちインドのゴアのポルトガル総督、マニラのスペイン総督、大琉球(沖縄)、小琉球(台湾)に服属するよう書状を送っている。その内容は「予は懐胎の初め慈母日輪の胎中に入るを夢む」すなわち自分は太陽の子なる故、諸国はことごとく予の門に来って屈服せよと言うことである。
そして、ついに秀吉自ら名護屋(佐賀県)に大本営を構え、文禄元年(1592年)に15万の兵を朝鮮半島に派遣する。朝鮮では、これを壬辰(じんしん)の倭乱と呼ぶ。先陣を切った秀吉の武将、小西行長等は、釜山に上陸。鉄砲を装備した日本軍は、わずか二十日余りで東莱城、梁山、密陽、尚州へと突き進み漢城(ソウル)を奪取、その後、平壌を占領している。
一方、咸鏡道方面(朝鮮半島北東部)への先陣を切った加藤清正等は、釜山に上陸、彦陽、慶州をおとし入れ漢江を渡って漢城に至り、それから東進して北咸鏡道に向かい永興、会寧まで至っている。
李朝より救援要請を受けた明帝国は、軍隊を派遣しその連合軍は平壌で日本軍を破り、漢城(ソウル)奪回を目指したが、その直前の碧蹄館で破れると、戦局はそのまま膠着状態に陥った。膠着状態の主な原因は、李朝の水軍、李舜臣将軍率いる独特の戦艦による統営沖の戦いで日本軍が敗れたためである。その戦艦は「亀甲船」と呼ばれ、その構造は、船の上部を厚板で亀甲状に張り、その上にはハリネズミ状の尖った鉄を埋め込んで敵兵の侵入を防いだものだった。
そのため日本軍は制海権を失い、弾薬、兵糧の海上補給が困難になった。兵糧に貧窮した日本軍は、現地で略奪を行い、そのためかえって朝鮮農民の恨みを飼いゲリラ部隊が各地に蜂起し苦戦を強いられた。
その後、現地の明軍と日本軍との間で講和が結ばれることになるが、強気の秀吉は自分の講和条件がほとんど受け入れられていない事に憤慨(戦況認識の甘い秀吉の講和条件は、現地で直接交渉に当たった先陣の大将、小西行長と明の講和使、沈惟敬によって勝手に訂正されたと言われている)し慶長二年(1597年)秀吉は、再度14万の軍勢を朝鮮に出兵させる。この戦いを韓国では、丁酉(ていゆう)の倭乱と呼ぶ。
しかしながら、この遠征では日本軍の軍規は緩み、朝鮮の民衆もゲリラ戦で対抗し、翌年、慶長三年(1598年八月)秀吉が六十三歳で伏見城で没すると戦果の上がらないまま十月には撤退することになった。撤退命令は密かに朝鮮東部の蔚山の加藤清正、南部の泗川にいた島津義弘、そして泗川のさらに西の順天にいた小西行長に伝えられたが、小西行長は、明の水軍や朝鮮の李舜臣将軍によって帰路を阻まれた。釜山の南西に位置する巨済島に集結していた島津義弘等は、小西行長救助のため再び順天に向かい露梁海峡の海戦で明、朝鮮の水軍の李舜臣を破り、行長は無事引き上げに成功した。釜山に集結した日本軍は、その年の暮れ博多に帰還し秀吉の朝鮮出兵は終わった。
タワーより見下ろす釜山港
この露梁海峡の戦いで、韓国救国の武将、李舜臣は敵の流れ弾にあたり戦死した。
李舜臣の位牌は、現在、巨済島の西方にある統営(昔は忠武市と呼ばれていた)に安置されている。韓国人は、いまもつて「秀吉の朝鮮侵略」を口を極めて非難すると言われている。
龍頭公園で憩う人々

龍頭山公園は、今では老人たちの憩いの場になっており、道路沿いのベンチには多くの人達が集まり、のんびりと時間を費やしている様であった。
李舜臣の銅像の周りには、平和の象徴である鳩が飛び交い平和の行く末を見守っている様に私には思えた。





 


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