チャガルチ市場


 我々一行は、釜山の台所を預かると言われているチヤガルチ市場に向かった。
龍頭山公園の南に位置する釜山港の入江沿いに、東西に300bほど続く魚市場である。
道路沿いには、魚市場特有の臭いと共に延々と露店が続き、近海産の魚介類や干物など所狭しと列べられ、おばさん達の威勢がいい。韓国語でおばさんのことをアジュマと言うらしいが、ここはまさにアジユマ達の職場である。その一角に日よけのためビーチパラソルの立てられた露店があったが、ここまでくれば違和感もなく何でも有りの感がする。
チヤガルチ市場の港
チヤガルチ市場の露店

チヤガルチ市場の市場ビルに入ると、3〜4坪ごとに陣取られた鮮魚の店がギツシリと建ち並び、その数はおよそ200軒以上あると言う。
水槽や皿に盛られた魚介類を注文すると、その場で刺身にしてくれ、客は簡易に作られたテーブルで食べられる仕組みになっている。
我々は、タコの生き造りを注文した。ニンニクのみじん切りにまぶされ小さくぶつ切りにされたタコは、まだ動めいている。ほおばると口の中で吸盤があちこちに吸い付く。噛まずに舌で遊ばせて食すると言う事であったが、時たま痛いほどである。
韓国の醤油は、日本に比べ若干甘い感じがしたが、同行の一人は日本より小さな刺身醤油を持参して来ていた。
タコの盛り皿とビール5本で、日本円で三千円弱と言う安さである。また、市場ビルの階上は食堂になっており、売場で買った物を調理してくれると言うことであった。
黒潮とリマン寒流がほどこす豊富な食材は古来より韓国の食文化を支えてきた。今夜の海鮮料理が楽しみである。
市場ビルを抜け裏手に出ると、港には大型漁船や小舟が漂い、間近には影島の街並みが見えていた。

 チヤガルチ市場を後にした我々は、ひとまず二泊する予定のロッテホテルで夕食まで骨休めすることになった。
釜山の繁華街の西側に位置するロッテホテルは、釜山で最大規模の収容数(900室)を誇る43階建の地上173bの高層ビルであり、龍頭山公園の釜山タワーとほとんど変わらない高さである。14階から39階までが客室になっており、私の22階の部屋からは釜山市街が一望できた。
屋上展望台、飲食施設、スポーツ施設、屋内プール、インドアゴルフ練習場、毎日行われているシアターレストランのラスベガスシヨー。また隣接するロッテ百貨店の巨大スペースを利用した屋内遊園地、スカイプラザなど、まさにロツテワールドの世界と言うことであったが、過密スケジユールのためほとんど利用できなかった。

 韓国最初の夜の会食は、海鮮料理であった。
チャガルチ市場より南に下る南海に突き出た岩南洞の付け根に、松島と言う海水浴場があり、その海岸線に沿うように刺身料理を食べさせる店が数十軒建ち並んでいる。その一角の二階に我々は通された。
夜のとばりのおりた海岸は、対岸のネオンが海面を染め揺らいでいる。何故かほっとするぬくもりである。
松島の海に揺らぐネオン
すでに、長テーブルには料理がセットされ、タイやヒラメや小皿に盛られた数々の料理が列べられている。歌や踊りがあればまさに竜宮城だ!
座敷はオンドル部屋になっており、耐熱シートが張られてほかほかと温かい。オンドルは、今で言う床暖房システムである。寒さの厳しい地域に住む韓国人の知恵であろうか、高麗時代からすでにあった伝えられ、かまどの熱を部屋の床下を通し煙突から吐き出すことによって部屋を暖める方式である。現在でも韓国には、一般家庭でもオンドルパンと呼ばれる床暖房の部屋があると聞く。燃料は練炭が使用され、かっては一家全員が寝ている間に一酸化炭素中毒で亡くなる事も度々あつたと言う。現在では、床下にスチームパイプを通したガスボイラー方式に変わり事故は少なくなったとは言われているが、まだまだ練炭を使用している所もあり、練炭を山積みにして走るトラツクは、韓国の冬の風物の一つになっていると言う。
昔、オンドルパンでは、色鮮やかな民俗衣装であるチマチヨゴリをまとった妓生(キーセン)と呼ばれる芸妓が唄や踊りでもてなす華やかな宴が行われていたと言うことであったが、現在ではあまり行われていないと言うことである。妓生の宴のルーツは、新羅時代までさかのぼるとされているが、本格的には高麗時代からであり、一般的には没落した家柄や貧しい生まれの人々が妓生となり唄や舞を売り物にしていたと言われ、常人(サンイン)より身分の高い官婢であり、地方の官衛、両班たちの宴席にはべりもてなしたと言われている。
海岸沿いに建ち並ぶ海鮮料理店
現在では、その風習は松島の近くの緑町あたりに残っていると言うことであり、チマチョゴリをまとい片膝を立てて座る姿は、なまめかしい限りであると言うことである。
チマチヨゴリは、一般的には正月や祝いの席で着るだけだと言うから、日本の和服みたいなものであろう。韓国の女性は必ず一着は持っているい言うことである。観光客用のチマチヨゴリの店もあり、オーダーすれば寸法を測り帰国までには仕上げてくれると言う。

両班(ヤンパン)とは、李氏朝鮮時代の特権身分階級のことであり、文官と武官に分かれていたが、文治国家をめざす李朝は、文官が武官より上位に位置していた。
当時の身分制度は、両班の下に中人(チウンイン)、常人(サンイン)、そしてさらにその下には、賤民と呼ばれた奴婢(ノビ)がいた。両班の多くは地主であり、常人はほとんどが小作人であった。そして常人たちは常に両班の横暴に身をちぢ込ませ生活すると言う状態であり恐れていた。
今でも地方に残るタルチユムと呼ばれる仮面劇は、両班に対する民衆の諷刺や抵抗として受け継がれて来たと言う。
また、李朝の国家を支配する思想は、中国の孔子に端を発する儒教であった。この儒教は、良きにつけ悪しきにつけ現在でも根強く韓国社会全体に影響を及ぼしている。
結局、儒教は倫理説ではあるが、本来為政者のために作られた教えであり、国家に忠実な御用学であった。
日本も韓国と同様に儒教を取り入れた国ではあつたが、日本では「忠」に重きを置いて取り入れられ、反対に韓国では「孝」の教えを第一義とした。
日本では、仕事のために親の死に目に会えなかったと言う話は、美談になるが、韓国では有り得ない。親不孝な行為は絶対にあってはならないとする。すなわち何よりも親戚、家族を大切にする国である。
そして韓国には、どこの家でも族譜(チヨクボ)と言う家系図が存在する。火事の際には、何よりも真っ先に持ち出すと言われていた。最近ではコピーして保管してあると言われるが、この族譜がないと言うことは、ひと昔前までは韓国社会では人間扱いされなかったと言われている。
韓国では、結婚しても夫婦は別姓のままであるが、韓国で最も多い姓は、金(キム)であり、以下李(イ)朴(パク)崔(チエ)鄭(チヨン)と続く、この五大姓が全人口の50lを占めると言う。
本貫と呼ばれる先祖の出身地と姓とで構成され、同姓同本は同一の父系血縁関係であるとみなされ、基本的に法律上の結婚は認められない。
儒教の影響は、いろいろな作法にも表れ、女性が男性にお酒をついではいけないし、ビンは必ず両手で持ちつぎ足したりはしない。タバコも目上の人の前では、進められる吸わないし、吸う時にも必ず正面では吸わない。
食事は、ステンレス製の箸とスプーンを使用するが、箸は料理を取り分けるだけに使いご飯はスプーンで食べる。日本の様に茶碗を持って食べる食べ方は、行儀が悪いとされる。確かに、箸はステンの方が環境保護のためには良いが、薄ぺらく使いにくい。
刺身は、日本の食べ方とは異なり、サンチユ(サニーレタスに似た葉)やシソ葉に辛子味噌などの薬味をのせ巻いて食べる。結局、我々は醤油につけて直接食べることになったが・・・・・・
次から次ぎと出てくる料理に、テーブルは一杯になり、まさに皿の上に皿を乗せる具合である。韓国の料理は、テーブルに所狭しと列べたてる形態であるらしい。
ビールはメクチユと呼ばれ、ハイトウビールが主に飲まれ、焼酎はソジユと呼ばれ、うすい酒みたいな焼酎であった。他に大衆的な焼酎はマッコリと呼ばれる濁り酒があると言うことである。
我々は、窓越しに見える釜山の夜景を味わいながら、韓国と日本の共通点を探りつつも、多くの異なる習慣は、まさに近くて遠い国であることを感じた。

「韓国の悲劇」と言う本の中で小室直樹氏は「日本と韓国の二千年の歴史の中で、明治維新に至るまでは軍事的には日本優勢、文化的には韓国優勢であって文武あわせてトントンであり、それ以後は経済も文化も、現在、日本から韓国へほとんど一方的に流れている。その逆はあまり見られない」と述べている。
実際に、我々は韓国に近い九州に住みながら、韓国の文化に対しては一部の人を除いては、あまり知らないと言える。それに比べ、韓国では日本のことをよく知っているし、ホテルのテレビでもNHKは放映されている。日本の文化が解禁になる以前からでも、音楽などは海賊版として、すでに若者の間には広まっていた。
「私は、ヒデが好きだ」と言うから、何だろうと思ったら、先頃亡くなった日本の音楽グループの一人であった。
それじゃぁ!「日本は好きですか?」と聞くと、「嫌いではない!」と答える。
まことに以て持って回った言い方である。日本人でもあまり表現しない言い方を改まって韓国人の口から聞くと不思議な気がする。
「私は、わがままで白黒をハッキリと付けない気が済まない」と言ってはばからない同じ人が、中途半端な「嫌いではない!」と言う微妙な表現をする。
日本語は、どれ位勉強したかと尋ねると、二ヶ月位であると言う。
我々が、英語を覚えるのに中学、高校と六年も費やしながらも、ほとんどしゃべれないのに比べれば異例の早さである。ハングル語自体が、日本の「あいうえお」の様に母音と子音で構成されている合理的な言語であるからであろうか?
それに比べ、我々の使っている漢字は読めるが、自分で書くのは名前がやっとで住所などは漢字では書けなかった。(私の尋ねた人は!)
私は、「嫌いではない」と言う表現の中に、韓国の若者の日本に対するあこがれを感じた。好きだと正面切って言えない。かと言って嫌いではない。その気持ちの中に、日本の35年間にわたる統治時代に対する不信感が横たわっている様な気がした。(多分に政治的にあおられて来た感もしないではないが!)
また、儒教の影響が根強く残る韓国は、先祖、血縁や目上に対する礼節を重視する国であり男尊女卑の国でもある。今の若者はそうでもないらしいが、四〇代以上の人の中には、その意識があると言う。
私を驚かせたのは、「礼儀、礼節の国」と言われる韓国で育った人が、
「日本人はマナーがいい」と言うことであった。
日本人の多くが、過去の侵略の歴史を直感的に理解している精か、また反日感情があることを知っている精か、腫れ物を触るごとく対応するからであろうか?・・・
韓国人は、一般的には感情的な国民であると言われている。以前、葬式の席で辺り構わず「アイゴー、アイゴー」と泣き叫ぶ姿をニユースで見たことがあったが、その異常さに驚いた記憶がある。
二言目には、人間性を話題にすると言われる、この国に儒教の影響を感じる。すなわち親族の死に対し、人間として大いに悲しむ事ことが良い人間性なのだ!と言う、そして、あたりかまわず泣き叫ぶことが、その人間の人間性をアピールすることなのである。
日本では、人知れず忍び泣く事はあるが、韓国ではないらしい。
また、韓国は「論理の国」であると言う。言葉でヤリ合う事から始まる。トコトン言葉でヤリ合うが、手が出る事はあまりないと言う。
日本は、言葉より先に手が出る。私の育つた九州の薩摩では、昔は「男は議を言うな!」「問答無用!」「不言実行!」などと議論をさげすむ文化があった。
交渉事でも、日本人はお互いテーブルに付くまでが勝負で、根回しなどと水面下で行われることが多いが、韓国では、テーブルに付きお互い正面からヤリ合うことから出発する。この事が日本人と韓国人との交渉を複雑にしていると言われる。最近では、ワイロがよく話題にされているが、ワイロについては日本とは若干とらえ方が違う様である。
日本では、ワイロは背任行為であるが、韓国ではワイロをもらえる程、自分は地位が高まったのだ、と考えるみたいである。まぁ誤解を恐れずに私のつたない情報によればの話である。
先頃、北朝鮮の「テポドン」が日本上空を飛び越えて行った時や、韓国と北朝鮮の紛争時など、私など本気に戦争が始まるかも知れないなどと思ったが、その時、韓国人論説員が、いつものごとく平然と解説している事があった。お互い感情むき出しに言葉で言い争う事が彼らのヤリ方であることを理解すると、かえって言い争いが尽きた時が危機なのだ!と言う気がし、論説員の平然さが納得できた。

 釜山と九州は、目と鼻の先であるから、日本に行きたいと言うが、ビザが難しいとも言った。また、日本のカメラの事もよく知っていてニコンとかキヤノンとかの話も飛び出す。日本語が堪能だから冗談も言ってみたが、あまり通じなかった。彼らは、感情的ではあるが、基本的には真面目で日本人に対しては、非常に真摯に物事を受け止める国民である事を知った。
日本の古代の歴史は、多くは韓国や韓国を通して日本に伝わった。飛鳥や奈良などから発掘されるものの多くは、それを証明しているし、古代の女性の衣服は、韓国の民俗衣装を思わせる。また、中国の唐に学び朝鮮半島を経て日本に伝わったものなど、すなわち共通の親を中国とするならば、韓国は兄であり日本は弟であると思った。そしてあらゆる文化や習慣が吹き溜まった日本列島で混じり合い咀嚼され日本特有の文化が生まれ育った。
私は、その事を話すと嬉しそうであり、韓国人の文化的自尊心を満足させたのであろうか、いろいろ腹を割って話してくれた。

  

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