慶州路へ

 韓国二日目は、慶州への行程であった。
早朝、やや曇り空の中を釜山より韓半島を北上する。慶州へは京釜高速道を利用し、約一時間二〇分の距離である。人口28万人、日本の奈良と大分の宇佐市の姉妹都市になっていると言う。二千年の歴史が生づいていると言われる新羅時代の古都、慶州は、紀元前57年の朴居世を始祖とし第五六代の敬順王(935年)まで992年間、新羅の都として栄えた。
新羅は、668年先進の百済、高句麗を制して天下を統一した国家である。
統一を果たした新羅は、百済や高句麗の文化を吸収融合させ、唐の絢爛たる文化を積極的に取り入れ独自の文化を形成した。仏教は公認され、最も隆盛を極めた。
そして、至る所で生産される良質の花崗岩は、寺や仏塔などの石造文化を生み出し、あちこちに点在する遺跡は、露天博物館、屋根のない博物館などと言われ、1979年ユネスコの世界十大遺跡の一つに指定された。
慶州高速道路ゲート

慶州のバス停の風景




 釜山市街を抜け慶州への京釜高速道は、両側に山並みを配したほぼ真っ直ぐな道である。ひんぱんに行き交う古びた大型トラツクの群、道路状況が良くない精か、かなりのスピードで走っている様に聞こえる。
また所々に点在する人家。冬枯れのさびれた風景は、どこかもの悲しく閑散としている。
右側片側二車線の道路は、やがて広々とした道路に変わった。中央分離帯に設置されたコンクリートの界壁は、いつでも撤去可能な状態であり、戦時には滑走路へと早変わりする仕組みになつている。韓国が準戦時体制国家であることを再認識させられる。
やがて高速出口へさしかかると、むくりのある鶴翼を思わせる瓦屋根のゲートが我々を出迎えた。

二千年の時空を越え、いにしえの世界にいざなう慶州は、その55lが国立公園に指定されていると言う。
道路の両側に植え込まれた数万本と言われる桜並木。元来、桜は韓国済州島が原産だと言われているが。徐羅伐大路を抜けると我々の最初の観光地である仏国寺へと向かった。
慶州は、大まかに四つの観光ゾーンに分かれている。
慶州路古墳群が密集する市の中心部周辺の市内地区。
市の東方に位置する普門湖周辺の大型リゾート地区。
史跡の宝庫といわれる南山地区。
そして、東南に位置する仏国寺を中心とする仏国地区である。
仏国寺へは、およそ二〇分の距離であった。蔚山街道を南下し門前町を過ぎ吐含山に向かって左折すると仏国寺に至る。
仏国寺は、韓国最大の寺院である、新羅時代の仏教建築の中でも最高峰を極め、韓国人も一生に一度は参詣を願うと言う古刹であり世界文化遺産である。
仏国寺案内板
        仏国寺入口の一柱門












新羅の人々は、すべてが満ち足りて苦悩のない国、すなわち極楽浄土を願い、この地に、仏国を再現し、求道への道しるべとした。
仏国への道は、一柱門と呼ばれる「仏国寺」の扁額がかかげられた関門をくぐることから始まる。やや赤茶けた参道沿いは、あちこちに晩秋の名残りが残されていた。その色あいは、私の歩調と共に変化し、やがて色(肉体)を脱し涅槃へと誰もが歩いて行く道のように思えた。
左手にひょうたん状の池が見え始めると、前方には、あらゆる煩悩と己への束縛を脱せよ!と問いかける様に解脱橋が架けられている。解脱橋の正面には、階段を隔て一段高い所に天王門が待ちかまえていた。この天王門をくぐることにより、はじめて寺内に入ることができる。天王門の両側には、独特の色あいの四天王像が、仏法と仏国を守護する様に侵入する者を見下ろしている。
東方の守護神であり、国を支え国を安泰にするという持国天。南方の守護神であり、五穀豊穣の役目を持つ増長天。西方の守護神である広目天。そして、北方の守護神である多聞天(別名、毘沙門天)たちである。
さらに突き進むと智慧の橋である般若橋がある。
「さあ!この橋をどう渡る!」と無言の公案で問いかけられている様な気がした。
「まぁ、かたい事は言わずに、はるばる遠い日本から来たのだから大目にみて下さい!」
「だめだ!問答とは、答えることによって成立する」
「答えるまで、この橋、渡るべからず!」
 ・・・・・・・・・
「しからば、智慧(般若智)をもって空を悟る。すなわち万物は、色即是空、空即是色にして相即相入なり。我を作るものは我なり、我を汚すものも我なり、我は大我の我のために渡り申す!」
「まぁ!いいだろう。今回は大目に見ることにしょう!」
 ・・・・・・・・・
般若橋を渡ると、広々とした境内であつた。
前方には、石組みされた土台石を従え、両手を大きく広げるように重厚な寺院が立ちはだかっている。
右手には紫霞門、左手には安養門。全長92bもあると言う石壇の上に展開する大伽藍。娑婆世界と仏国土を隔てると言う胸壁。娑婆より仏国へ至る石の階段。右手の紫霞門へは青雲橋、白雲橋が架けられ、それぞれ十八段と十六段の階段を上る。左手の安養門へは蓮花橋と七宝橋の、それぞれ十段と七段の階段を上る。
紫雲門(仏国への青雲橋と白雲橋)
修道を積むことにより、はじめて仏国土への階段が開ける。紫霞門、安養門への階段は、遺跡保護のため出入りは禁止されていたが、紫霞門の奥に開ける釈迦牟尼仏を奉じ、多宝塔と釈迦塔の両塔を従える大雄殿。そして、その奥には、仏経の講義が行われていたと言う講堂無説殿。安養門の奥には、阿弥陀如来を奉ずる極楽殿。それぞれは回廊によって繋がれている。
そして、無説殿の背後の高台には、右手の観世音菩薩像を安置する観音殿。左手の毘盧舎那仏を安置する毘盧殿がひかえる。

まさに、新羅の仏教芸術の極地とも言える大伽藍がそこにあった。
しかしながら1592年の秀吉の壬辰の倭乱(文禄の役)で大半の建物は焼き払われ、その後、逐次再建されたものであった。
新羅第二十三代法興王の535年の創建とされる仏国寺は、完成当時は、現在の十倍以上のスケールを誇り八〇棟もの建物が建てられていたと言われている。
紫雲門の奥の大雄殿 大雄殿の釈迦牟尼仏
石垣塀の道 仏国寺娑婆の境内
 
 我々は、仏国寺を後にすると普門湖へと通ずる街道途中の慶州民俗工芸村へと向かった。
陶磁器や貴金属、木工細工などの韓国の伝統工芸品の工房が集まって村をなしている、いわば産地直売所である。その一つの月城陶窯に案内された。一時期断絶していた高麗の青磁、李朝の白磁が1970年代よりの日本人の陶器ブームによって、現代の陶工たちにより再現され、良質の陶土を埋蔵する地で甦った。

月 城 陶 窯
現代の多くの陶工の中には、日本の唐津や伊万里で陶芸を学んだ者も多いと言う。
もともと唐津、伊万里における陶工たちの先祖は、秀吉の朝鮮出兵の際に日本に連行され、そのまま日本に帰化した人たちである。
秀吉の時代は、盛んに茶会が行われ、茶器としての茶碗一つが城一つに匹敵するほど重宝がられ、各藩は朝鮮より撤退する時に、競って陶工たちを日本へ連れ帰ったと言われる。そして陶芸は、日本の地で花を咲かせた。
労働することをさげすんだと言われる李朝時代の陶工たちの階級は、農民よりもう一つ下の下層の階級に置かれ、官窯に働いた陶工はともかく民窯の陶工たちは、サギチヨンノム(沙器野郎)と呼ばれ生活は厳しいものであったと言われている。
また、李朝の白磁などは、下層の人々には使用が許されず、白磁の代用としての粉青のサバル(鉢)などの雑器を使用していた。
500年続いたと言われる李朝。白色の陶器を極致美まで高めたと言われる偉大なる文化も、その使用を制限したことにより李朝の終焉と共に消え去った。
また、日本における茶器として重宝がられたのは、高級な白磁ではなく幻の茶碗と言われた井戸茶碗や大井戸茶碗、熊川(こもがい)茶碗などの下級階層の人々に使われていた、もっとも粗悪な雑器であった。
幻の茶碗と言われた井戸茶碗がどこで焼かれたか、400年以上にわたり謎と言われて来たが、近年、その出生が朝鮮半島南部の普州の白蓮里古窯址であることが解った。
井戸茶碗の特徴とされる高台につくロウソクが垂れて固まったような鮫肌状の梅花皮は、窯の温度がやや低いため釉薬が完全に熔けなかったことで生じる焼き損じの模様であるが、かえってこの事が日本人にとっては、侘び寂びを感じさせるとして珍重がられた。
そして、この地方の陶工や家族は、朝鮮出兵の撤退の際、薩摩藩によって連れ去られたと言われ、その後白蓮里の井戸谷の沙器部落は消え去ってたと言われている。
また、井戸茶碗の中でも首座にあるビワ色のやや大ぶりの大井戸茶碗(日本には、国宝の喜左衛門がある)の出生も朝鮮半島南部の鎮海近くの寒村から発掘され判明した。
一般に、普州を中心とする朝鮮半島南部一帯は、耐火度の高い風化した花崗岩が多く埋蔵し少量の酸化鉄を含んでいるため、焼き上がりは黄色や黄褐色になると言う。高麗茶碗の一つである熊川茶碗は朝鮮半島南部の熊川地方とされているが、本来の特徴からして熊川地方のものではなく、熊川の港から日本に向けて船積みされたことから付けられた名前であろうと言われている。
土と炎の芸術とまで言われる陶磁器は、「焼き足らず、焼き至らず、火の神のいたずら」と言われるほど失敗も多く、現在では一部を除いては、薪で焼かれた登り窯は姿を消し、焼き損じの少ないガス窯に変わっていると言う。
案内された月城陶窯の作業所の裏手にある登り窯は、観光用に作られた装飾としての窯の様に私には思えた。


 


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