木崎原合戦跡
えびの市池島


木崎原古戦場跡
県指定文化財 平成10年3月26日指定
元亀3年(1572年)5月3日夜、小林の三山城を出発した伊東軍約3.000は
4日未明、まず別働隊を派遣し加久藤城を攻め落そうとしたが失敗し、この木崎原
の地に還り、鳥越城に布陣した後続軍と合流しました。しかし、眼前の島津軍の劣勢
を侮り決戦の時を逸し、この間に、敵襲の狼煙(のろし)により吉田・馬関田・
吉松郷及び北薩の各地より急拠馳せ集まった島津軍に包囲され、一大激戦を交えた
古戦場跡です。
島津・伊東両氏は、この一戦を境として、島津氏は三州制圧の夢を果たし、一方伊東氏は、
居城都於郡を追われ衰退の一途をたどるという、両氏の明暗を分けた一戦であったため、
古来、世に「島津、伊東の関ヶ原合戦」といわれています。
この合戦にかかわる史跡に、飯野城跡、加久藤城跡、鳥越城跡、首塚、太刀洗川、
三角田、六地蔵塔、元巣塚、二八坂(上別府坂)などがあります。
(小林市には、三山城跡、伊東塚、粥持田などがあります。)

平成8年3月   えびの市教育委員会
六地蔵塔
木崎原合戦では、5月4日の1日だけで伊東軍560余人、島津軍260余人の
戦死者が出ましたが、島津義弘はこの六地蔵塔を建立して、敵・味方双方の戦死者
の霊を供養しました。
島津氏は、大きな戦いの跡地には殆ど六地蔵塔を建立して供養しています。
伊東新次郎との一騎打ちで勝利を得た島津義弘は、この石に腰を掛け
一時休息したという。
三角田
木崎原合戦の時、伊東軍と島津軍が一進一退の激戦を繰り返したところで、
島津義弘が伊東軍の将・伊東新次郎を槍で突き伏せ、また、適中深く進みすぎた
義弘を退かせるために、盾となって久留半五左衛門・遠矢下総守・富永刑部・
野田越中坊・鎌田大炊之介・曽木播磨の六重臣が、討死したのもこの場所です。
17代島津家当主・島津義弘公は、知勇兼ね備えた天下の名称でした。16世紀
後半の戦国の世で活躍。市内飯野城で26年間居城し、ここ木崎原の地をはじめ
九州各地を転戦。その後、豊臣秀吉の朝鮮出兵や天下分け目の関ヶ原合戦では、
すぐれた戦略と行動力で名を全国に知らしめました。特に関ヶ原での家康本陣を
少数で突いた敵中突破は、その歴史の語り草となっています。また、文化等の面
でも文芸、茶道、陶芸、医学等で功績を残しました。
2000年12月9日撮影



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