米良筑後守の墓 |
須木村小野・旧一麟寺墓地 |
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村指定史跡 須木地頭・村尾源左衛門尉重候之墓 源左衛門は、薩摩藩士で幼名を亀三といい天文19年 (1550年)に生まれた。性豪胆で元亀3年(1572年) 5月の木崎原の戦いでは、島津の将として本地原に向い伊東軍 50余人を打ち取り武功をたてた。天正4年(1576年) 本村が島津領となり、その後、吉田、馬関田、小林、高原の 衆百六十人と共に須木に移住し、文禄5年(1596年)須木 地頭に任ぜらた。 なお、藩の御番役としても多大の実績を収めたが、元和2年 (1616年)丙辰5月24日、当地で病死した。時に年67歳、 法名を「松岳定秀良居士」という。 平成元年3月31日 須木村教育委員会 |
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村指定史跡 須木城主米良筑後守重方之墓 筑後守は、菊池氏の族で伊東方に属し、須木城のほか大河平の 今城、小林の三ツ山城、野首城の守将となり、知勇兼備の名将 であった。永禄11年(1568年)伊東・島津の飫肥におけ る戦いでは請われて酒谷に赴き両軍の和を図り之をなしとげた。 また、三ツ山城の戦いや木崎原の戦いにおいては大いに武功を たてたが、元亀3年(1572年)ついに木崎原において討死した。 首級は、島津義弘による実検の後、桶に収めて城主の菩提寺である 一麟寺(明治の廃仏毀釈で廃寺)に送り届けられ、この地で埋葬 された。 ちなみに城主の首を収めたという桶は本村教育委員会に今なお 保存されている。 平成元年3月31日 須木村教育委員会 |
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須木城主米良筑後守重方之墓 |
参考(西藩野史より) 筑後守は、元亀3年(1572年)5月4日の朝まだき尖兵隊長 として部下督戦中、川内川畔にて対岸の不動寺(加久藤城下) の僧久道に鉄砲により射殺されたものと思われる。 |
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米良氏墓地 |
2000年12月3日撮影 |