しばらく更新してなかったけど、掲示板投稿に啓発されて
「内木場城跡」探訪して来ました。
内木場城跡(宮崎県小林市大字東方字内木場)
小林より国道265号線を須木方面に向かう、
陰陽石バス停より左折、すぐに二股の別れ道を三ノ宮峡方面へ
しばらくすると左前方に小高い山が見える(内木場城跡)
陰陽石バス停より車で700bの距離。
最初は解らなかったが、たまたま近くでゲートボールをしている人々が
いたので、訪ねての発見である。
城跡の入り口には「内木場城跡」とあるだけで由来書き等の表示はない
車を止めて、徒歩で登る、すぐに頂上。
登り切った所は平坦になっており、恐らくここに本丸があったのであろう!
現在は畑になっており、特に城跡の痕跡はなく
城跡の表示がなければ見落としてしまう山林である。
周囲の人家を一巡り、山に向かって小さな神社があったが名称は表示されてない
近くに「内木場」姓を名乗る人家を2軒ほど発見。
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国道265号、陰陽石入り口バス停。左折 | 分かれ道、右手、三ノ宮峡方面へ |
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2005年4月16日撮影 | 城跡の頂上、恐らく本丸のあった所 |
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名称不明の神社 |
内木場城跡(小林市大字東方字内木場) |
内木場城は木葉(きば)城ともいい、中世、真幸院の領主であった北原氏が築城したので はないかと考えられている。 中央の高い台地が本丸。本丸と東出丸の間に空濠があり、西側の一番低い大地が西出丸。 西南を浜ノ瀬川がめぐる天然の要害となっている。 永禄年間(1560年代)橋口刑部左衛門が居城していたという。 「日向纂記」や「小林誌」には、元亀2年(1571)9月3日、内木場の砦を重ねて築き云々と あり、伊東加賀守裕安が城を守ったが、木崎原合戦で戦死した。 天正4年(1576)以降、島津氏の領有となり、他の城と同様、 元和元年(1615)廃城となった。 小林市史より。 |
脇道にそれつつあるみたいだ!でもおもしろい。
11月に入ったとは言え、最近、宮崎は暖かい
シャツ一枚で過ごせる。年々地球の温暖化が進んでいることを実感する。
11月には、中国の江南地方に旅行に行こうと思っていたが
今年は、どうやら行けそうにない。
いま、薩摩の琉球侵攻あたりの調べているが、
段々横道にそれている、薩摩の三州統一とか、秀吉の九州征服、
関ヶ原の戦いの前年に起こった、宮崎県都城の庄内の乱など
おもしろい、島津本家と一族の伊集院家との戦い
結局、家康の仲裁で戦いは終結するのだが・・・
その後、天下分け目の関ヶ原、島津義弘の敵陣の中央突破!
そして、1609年に島津家久の琉球侵攻につながってゆく
関ヶ原の戦いで西軍に付いた島津家、義久、義弘、家久とつながる時代は、
家康との駆け引きによつて、領地を失うことなく島津氏が生き延びた時代だけに、
またまた、おもしろい。その中で、智将と言われた16代義久に
興味が沸いてきている。機会を見付けて国分市にも、出向いてみようと
最近、またまた思っている。
2000/11/5(日)
秋の夜長、また、一つの喜びに浸った。
秋の夜長とは言え、時間に追われながら歴史書を読んだ。
なかなか、ホームページも更新出来ないまま時間だけが過ぎた。
調べるときりがないくらい時間が足りない
勿論、知りたい史料も足りない。
しかし、歴史を通じていろいろなものを学ぶ
過ぎ去った事を知ると言うことは、一見無意味なようなきがするが
これからの生き方に、一つの指標を与えてくれる。
いつの頃から、歴史好きになったか分からないが
最近!返す返す学生時代にもつと勉強しとけばよかったと反省する。
秋の夜長、反省と共に、知ることの喜びに浸っている。
その精か、あまり夜遊びに行かなくなつた。
ようやく、磯街道の続編・祇園之洲(ザビエル)を作り上げた。
興味のある方は、読んでやって下さい。
祇園之洲へ(ザビエル)
2000/10/25(水)
今年2000年は、ザビエルが日本に上陸して451年目
1549年8月15日
ザビエルを薩摩に水先案内したヤジロウは、倭寇だつた?
その可能性は、十分にあるみたいだ!
調べてみたい。
そう言えば、さかのぼること6年前、
1543年、種子島に鉄砲が伝わった。この時、ポルトガル人の
乗っていた船は、中国人の倭寇・王直のジャンクである。
この時代の日本の海外文化移入は、
すべて倭寇が、係わっているようである!
ますます、調べる事が次々と起こってくる。
秋の夜長、まあ!ボチボチ行こう。
と思っている、今日この頃です。
2000/10/3(火)
秋分の日
秋の彼岸の中日、すなわち日の出・日の入りが真東・真西にあり
昼と夜の長さが等しくなる日。
また、ご祖先を敬い、亡くなった人々をしのぶ日でもある。
今日の、宮崎地方は、秋晴れである。
父に言われて、浄信寺(浄土真宗派)に、
ご先祖様のお参りである。
久しぶりに、ありがたい説教を聞く!
ほとんど遅れて参加したのてどあるけれども、
一つだけイイ話を聞きました。
歴史的にと、言う事ですけど、
「おめでとう」の語源について、北海道からの住職の話によると、
「おめでとう」と漢字で書く時には「お目出とう!」
と一般的には、書くけれども、「お芽出とう!」と書いて欲しいと言う事です。
もともと、「おめでとう」と言う言葉は、
モンゴル地方の「オミトー」から来ていると言うことであり、
さらに、「オミトー」のルーツは?
やはり、インド!サンスクリツト語(梵語)であり、
「アミタ!」だそうです。
ミタとは、量を意味し、「アミタ」とは、量を計れないと言う意味であり、
この「アミタ!」が中国に渡り「アミダ!」に変化し、日本に伝わったと言う事で、
すなわち、この「アミダ!」こそ、「阿弥陀如来!」
あまねく照らす慈悲、押し測れない阿弥陀如来の、ご慈悲であると言う事だそうです。
皆様!、一同、合掌!
なんか、変な一人言になりましたけれど、たまにはイイ話聞くのも、イイかなぁ!と思いました。
これからは、[おめでとう!]と言う時には、この事を意識しょうと思ってます。
そう言えば、今日は私の宇都宮にいる姉の誕生日です。
としごの姉だけど、こころから[お芽出とう!]と言います。
照れくさくて、直接は言えないけどね、
あ!それと、今日、書きました!
[磯・街道探訪]
まだ、一部ですけど歴史に興味のある方、読んでください。
「多賀山公園」編です。
2000/9/23(日)
海保白書、海賊対策初めて指摘。
12日、新聞の記事によると2000年版海上保安白書は、
海賊問題を初めて盛り込んだとのニュースである。
1999年10月マラッカ海峡で、日本人が襲撃された
貨物船「アロンドラ・レインボー」の事件がきっかけとなつたとの事であるが、
最近の海賊は、凶悪化し、船体や積み荷の売却を行う国際的犯罪組織の
存在が推測されるとしている。
マラツカは、ホルトガルによる占領(1551年)以前からも海の十字路と言われ
国際貿易の一大中心センターであった。
マラツカには、無数の国籍の人々が集まり、当時レケオと呼ばれたのは
琉球人のことであった。
また、海賊も当時から盛んに活動をしている。
その流れが、現代までも、脈々と続いていると言うことであろうか?
2000/9/13(水)
鹿児島市、磯街道探訪。
9/5日より8日まで4日間の鹿児島出張である。と言うより講習会である。
その中日に、夕方より帰る途中に、旧道の磯街道を桜島を右手に眺めながら探訪する。
祇園之洲公園
多賀山公園
この一帯には、中世の山城、薩英戦争、東郷元帥墓地、ザビエル記念碑など
多くの遺跡がある。
詳細は、「磯街道探訪」へ
作成中です。
2000/9/7(木)
夕暮れの海は、静かである。
志布志港は、南九州の国際物流の一大拠点として、現在も栄えている。
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大 隅 半 島(鹿児島県) |
西暦1342年(暦応5年)志布志湾の沖合いを30数隻の軍船が突き進んでいた。
四国、伊予の忽那(現在の中島)水軍と河野一族である。
船上の後醍醐帝の皇子、懷良(かねよし)親王は、征西将軍の勅命を受けて
南朝方勢力拡大と結集のための薩摩入りであった。
目指すは、南朝方の勢力拠点である指宿である。(山川港説が有力)
すでに、先駆けとして後醍醐帝の侍従、三条泰季(やすすえ)は5年前に下っている。
日本史上、天皇が南北に分かれて戦った南北朝時代。
光明天皇を擁立する足利尊氏の北朝と、
後醍醐帝の吉野朝の南朝方は、
以後全国規模で、南北朝合一(1392年)までの56年間の勢力争いを繰り返す。
当時、志布志には、湾を望む高台に松尾城があり、領主は救仁院(くにいん)氏から楡井(にれい)氏
畠山氏、新納(にいろ)氏、島津氏、肝付氏と移り変わった中世の山城であった。
また、志布志湾の南部に位置する高山町は、肝付氏の本城である高山城があり、
肝付氏は南朝方に組みし島津氏とは、長年の宿敵であつた。
以後、大隅地方は、島津氏の三州統一(日、隅、薩州)統一まで数々の戦いの舞台になってゆく。
倭寇の登場する南北朝動乱期や後期倭寇(応仁の乱以降)においては、
志布志港や高山の波見港は、大隅地方の倭寇の拠点であり、
波見港における重一族や堀口一族は、倭寇の頭目であつたと言われている。
16世紀以降の倭寇(武装した海商たち)は、遠く南方まで足を延ばし南シナ海までおよんでいる。
その多くの倭寇たちの拠点は、坊津をはじめとする南九州一帯の港であった。
嘉靖の大倭寇と言われる明の時代。
後期倭寇の代表は明人であり、長崎平戸に居を構えていた王直であった。
1543年(天文12年)ポルトガル人によって鉄砲が種子島にもたらされた時、通訳した五峰、その人である。
また、王直と共に初めより行動を共にしていた徐惟学の甥である徐海は、
僧侶であったが、ついに徐惟学を頼って海へ出た。
当時、徐海は徐惟学と共に大隅に滞在していた。
まもなく、中国沿海を荒らし回る倭寇の最大の賊首になってゆく。
そして、徐海軍団の腹心の辛五郎は、ここ大隅の人間であった。
特に、嘉靖の大倭寇と言われる1556年(嘉靖35年)における倭寇集団は、
およそ2万人であったと言われ、徐海自身も辛五郎を副将とし、
薩摩、大隅の倭人1万人余を引き連れて、
中国江南地方、抗州湾の北岸の乍浦(さほ)に上陸した。
次々と官軍を蹴散らし内陸へと侵入して行く、抗州へ至ろうとするが途中で負傷する。
また、官軍の智将、胡宋憲(こそうけん)の巧みな懐柔工作により最後を遂げる。
この時、副将の辛五郎も捕らえられたと言われている。
徐海にとつては、この大隅は第二の古里であったと言えるかも知れない。
また、薩摩における南方への進路は、遠く南シナまでおよんでいたと言われていたが、
当時、世界は大航海時代を迎えており、嘉靖年間にはポルトガルは、
インドのゴアを拠点とし、マラツカ、モルツカ諸島を占領し
中国折江省、寧波(にっぽう)の舟山群島まで達していた。
今こうして、インドネシアより来た二人の女の子と
夕暮れの志布志湾を眺めていると、何故か不思議な思いがしてくる。
彼女たちは知らないだろうが、遠い昔を辿れば、彼女たちにとつて
この志布志や薩摩地方は、なにかゆかりがあったに違いない。
この地方に働きに来た18歳と21歳の二人の女性、
その屈託のない笑い声や笑い顔を見ていると、
私にとっては、たまらなくいとおしくなってくる。
歴史好きが、そうさせるのか?
2000/9/3(日)
書棚を整理していたら、3年前のフィリピン旅行のアルバムが出てきた。
フィリピンの友人の弟の結婚式に参加した時の写真である。
フィリピン諸島の中でも一番南に位置するミンダナオ島での結婚式である。
結婚式が終わって総勢10数名でダバオ沖のサマール島にキャンプした時の写真だ。
なつかしいと共に、
沖合は、海のキレイさに反し海賊でも出そうな感じであった。
近年、昭和36年、毎日新聞は、フィリピン・ダバオ沖に海賊が現れるを掲載した。
宝石など700万円を奪うとある。
また、マニラ湾では、昭和46年海賊に日本船員が襲われ重傷を負っている。
我々の宿泊したホテルには、常にショットガンを持ったガードマンが警備していた。
我々は、ダバオ市内を歩くときは、友人の兄に常に警備してもらった。
今でも、海賊は過去の歴史ではないことを実感する。
2000/9/1(金)
以前からの知り合いのインドネシアの女性から電話がある。
志布志(鹿児島県)に来ているとのこと、私のテーマである倭寇の歴史。
志布志港は、関連がある所でもあり、遊びがてら休みの日でも行ってみようかと思う。
志布志(鹿児島県)公式ホームページ
2000/8/20(日)
ひさしぶりに、ホームページをリニユーアル。
2000/8/15(火)